猪瀬直樹(作家、元東京都知事)

虫の知らせ


 今年3月末に公職選挙法違反の罪で略式起訴され、罰金50万円を納付して事件が終わりました。昨年12月に東京都知事を辞めたんですが、振り返ってみると、東京五輪の招致活動の最中に妻、ゆり子が突然亡くなり、まさに青天の霹靂とも言うような出来事もありました。小説より奇なりと、事実はね。健康体だった妻とは一緒に招致活動を続けてきましたが、とても予想もしていない展開だったので、「なぜだろう」との思いはずっとありました。

 予兆はなかったのか。でも今思えば、「予兆」と思えるような出来事が一つありました。2013年5月19日。雨の日も風の日も12年間毎日、朝夕ともに散歩した飼い犬が突然動かなくなったんです。何かを察知したんだよね、たぶん。犬は飼い主の命令に従う習性がある。つまり、主人と一体となっているという犬の宇宙のようなものがあって、その宇宙が崩れかけている異変に愛犬が本能的に察知して急に動かなくなったんだと思う。その一週間後、妻が緊急入院することになるんだけれど、今思うとそれが予兆だった。

 妻は毎週水曜日、1時間半のコースのテニススクールに通っていました。でも、愛犬が倒れて3日後の水曜日のテニスは「球が当たらない」と言って、30分で切り上げて帰ってきた。脳の腫瘍で神経が圧迫され、視野が狭くなっていたのだと思う。

ロシア・サンクトペテルブルクで招致プレゼン
テーションをする猪瀬氏=2013年5月30日
 5月25日の土曜日は久しぶりに公務をはなれ、休日となった。東京五輪招致のプレゼンテーションでロシアのサンクトぺテルブルク行きが2日後に迫っていたこともあり、これで心置きなく出発の荷造りができる。その日の晩、サンクトぺテルブルクと、7月3日のスイスのローザンヌ、9月7日のアルゼンチンのブエノスアイレスで着るレセプション衣装を3着買ってあるので着てみようと妻に言われ、2人だけのミニファッションショーを15分ぐらいやった。荷物を入れたトランクも2つ並べて用意してあって、僕のが黒で彼女のがグレーだった。就寝前、そのトランクの端に妻が足先をぶつけてつまずいた。転んだわけでもなく少しよろけただけだったが、言葉のもつれとか娘の「病院で診てもらった方がいい」という言葉が気になりだして、夜中の12時くらいに以前対談したことがある精神科医の斎藤環さんの携帯電話にかけた。症状を一通り説明して「ペットロスではないか」と投げかけると、すかさず彼は言った。「それはペットロスじゃないですよ。脳機能の問題と思われますので、すぐに受診をおすすめします」。

 すぐに秘書と連絡を取り、病院での診察の段取りを頼んだ。5月26日の日曜日は大相撲の千秋楽で都知事杯授与のために妻と一緒に両国国技館へ行く予定だった。迎えの車が来て、その行きがけに病院へ立ち寄り検査してもらおうと決めた。両国国技館に着いたのは午後4時40分ぐらいだったかな。残り七番ぐらい。軽い脳梗塞かもしれないという覚悟はありましたが、妻のことが気になって観戦も上の空だった。白鵬が優勝し、賜杯を手にしたのは5時半すぎ。内閣総理大臣杯や外国のさまざまな優勝杯、そしてNHK杯の後に都知事杯を授与した。その間、花道のところで順番を待つのだが、授与式が終わるとすぐに国技館の地下駐車場を出て病院に向かった。すると、院長から電話がかかってきた。午後6時10分ぐらいだったと思う。

 「奥さまについてですが、脳の中央部に悪性の腫瘍が見つかりました。それもこぶし大ほどの大きさです。グレード4です」。いきなり「グレード4です」と言われても、ピンとこなかった。院長に確かめると、「1から4まであって一番上です。申し上げにくいのですが、余命数カ月です」

 不意をつかれたような気持ちでした。あったとしても軽い脳梗塞ぐらいだろうと思っていたので。病院まではあと20分くらいで着いてしまう。院長はきっと大相撲が終了したタイミングを見計らって電話をかけてくれたのだと思う。病院に着いて、僕がいきなり検査結果を聞いてしまっては困るからとの配慮もあったのだろう。病院の裏口では院長が待っていた。すぐに控室に入って、MRIの画像を見せてもらって詳しい説明を受けた。脳の中央部に黒い塊がある。「神経膠芽腫です。ここまで大きくなると、手術をしても治癒は難しい」。いきなり「余命数カ月」と言われてどうすればいいのか。翌日からは一緒にサンクトペテルブルクに行くと言っているわけですから。その瞬間をどうとらえていいか分からない。

 それですぐ、都内にいる娘と息子に電話して、渋谷駅近くのホテルで集まった。午後8時。個室のあるレストランだった。「実は…」と切り出し結論だけ述べると、一様にびっくりしている。もちろん、病室の妻にも会って話したが、「明日はサンクトペテルブルクには行けないからね」と伝えた。「えっ? どうして?」と首をかしげていたが、「ちょっとね、検査の結果、行ける状態じゃないらしいんだよ。一週間で戻ってくるから、とりあえず入院して静養してなさい」

 医者からは脳のむくみを取るために脳圧を下げるステロイドかなんかで、むくみを抑える必要があると言われ、帰国後できるだけ早く手術を実施することが決まった。2人の子供たちには出発前にも「僕が帰国するまで、病院にはできる限り顔を出してくれ」と伝えた。この時点ではまだ都庁の職員には何も言ってなかった。同行するはずだった妻がドタキャンなわけでしょ。「なんでドタキャンなんですかね」「またわがままやっている」とかなんか陰口もあったようだけど、彼らは事情を知らないからしょうがない。