そのシナリオは、おそらく「自分は戦うつもりだったが、韓国や日本といった同盟国がやめてくれと懇願するので仕方なく交渉を選んだ」と言えるような、もう一段高い危機的状況を作り出すことだと考える。

 そして、もう一つの「おそらく」を言えば、日本の官邸もそのことに気づき始めている。だから、そこではきっとうまい「芝居」がうたれるに違いない。安倍政権の支持も劇的に回復するかもしれない。

 下手な芝居をすれば、本当に戦争になってしまうかもしれない。だから、ぜひうまくやってもらわなければならないのだが、核保有を前提とした交渉をどうやって正当化するのか、依然として難しい課題があることは間違いない。

 日本人が考えなければならないことは、したいこととできることは違う、という現実を直視することだ。北朝鮮に核を放棄させたいのなら、金正恩体制を倒すしかない。それは、アメリカにはできるが、その過程でどれだけの被害を受けるのか、その覚悟がなければ「できないこと」なのだ。

 脅威とは、能力と意志の掛け算だ。北朝鮮の能力を止められないなら、その能力を使う意志をなくさなければならない。北朝鮮の意志は、一貫してアメリカを向いてきた。そもそも、米朝の対立は1950年の朝鮮戦争にさかのぼる。戦争は3年後に休戦を迎えたが、まだ終わったわけではない。両国は今も戦争当事者であり続けている。戦争当事者の一方に向かって、「敵と対等になるための核を持つな」と言っても通じない。

 それゆえ、核放棄というハードルを外し、まずは南進統一の野望を捨てさせる。それならアメリカも北朝鮮を攻撃しない、という平和条約によって両者の戦争を終わらせることから始めなければならないのだろう。現に両者の激しい言葉の応酬にもかかわらず、事態はそこに向かって進んでいる。それは両国の政治リーダーの思惑を超えた、問題の構造に内在する論理的帰結だ。

 そこで、日本がもっと心配しなければならないのは、北朝鮮の核を現実として認めることによる「核不拡散レジーム」の空洞化だ。だが、少なくともそれは、戦争の理由にはならない。それが許せないのなら、インド、パキスタン、イスラエルも許せない。そうではなく、北朝鮮が自国の脅威だから許せないというのであれば、日本も核を持つという論理になりかねない。
「核兵器禁止条約」制定交渉で、空席となっていた日本政府代表の席=7月7日、ニューヨークの国連本部(共同)
「核兵器禁止条約」制定交渉で、空席となっていた日本政府代表の席=7月7日、ニューヨークの国連本部(共同)
 しかし、その脅威は日本を攻撃する意志をなくすことで脅威ではなくなる。インド、パキスタン、イスラエルの核が脅威ではない理由もそこにある。その上で、唯一の戦争被爆国という、カネで買っても得られない正当性を背景に、核の不当性を訴えていく。日本が「できること」は、そういうことではないのか。核をなくすという「したいこと」を、「できること」をもって実現するには、時間がかかるのである。