今年は「理」の受難の年だったかと思います。理科、論理、理念、道理。理とは「ことわり」と読み、物事の筋道のことです。感情は人によって違うものですが、理というものは誰に対しても常に一定を保ちながら世の中を貫くものです。今年はその「理」にとっては受難の年だったのではないかと思うのです。

 たとえば「理科」。これは科学の基本的な筋道を勉強するものです。今年、一人の若い女性科学者がSTAP細胞なるものを発見したと発表し、のちにその過程における不明瞭さや疑念などが指摘され、発見は撤回されるという事態になりました。もちろん科学者とはいえ人間ですから万能でないことは当たり前です。だからこそ彼らには常に厳しく科学的な倫理姿勢が求められます。しかし、世間はもはや科学とは無関係な彼女の私生活までさらしあげ、それが彼女への罰であり社会正義だと言わんばかりでした。あの騒動の中で結局、科学として何が問題だったのかという理科的アプローチで考えた人はどれだけいたでしょうか?

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 そして震災以降相変わらず、放射能に関する間違った知識と差別意識を堂々と口にする人は後を絶ちません。理科の知識よりも、自分の感情と憶測を優先するばかりか、人類が時間と犠牲を費やして育ててきた科学知識ですら陰謀だと主張し、思考停止に陥っています。社会のあらゆる場面で自分の感情が論理の上位概念にくることに何の疑念も感じないというのは、実はとても恐ろしいことだと思います。

 理が軽視されたと言えば、年末の選挙はじめ政治もそうでした。野党の多くは「アベノミクス反対」「与党の暴走を止めよ」と訴えていましたが、それで対案はあるのかというと特にありませんでした。とりあえず与党のやることには何でも反対という単なるあまのじゃくです。一般有権者も「とにかく安倍首相が大嫌い」という単純な嫌悪感や、中韓へのマイナス感情から相手を知ることを放棄して妄想の中で巨悪の帝国を作り上げている人まで、実に感情が大手を振って歩いていた気がします。肝心の「日本に必要な政策は何なのか?」という議論は隅っこで地味に膝を抱えていました。

 感情を持つことが愚かだといっているのではなく、感情と論理の優先順位は常に一定ではないということです。自分の好き嫌いに過ぎないものを社会的な文脈の中で善悪をつけて語るとき、「相手のことが嫌い(=悪)だからボコボコに殴ってもいいのだ。」と堂々と暴力を振るうことを自分に許すことになります。放射能の危険性を訴えるのは正義だから、福島のことはどれだけ口汚く大げさに罵っても許されるのだと。少し冷静に考えれば、こういう態度が暴力であることはまさに自明の理です。しかし人は善悪という文脈の中で自らの好悪に過ぎない主張を「より安全に」言いたがるものです。私たちが「理性」の力でその誘惑に対して踏みとどまれるかどうか。自戒もふくめて書きました。

 来る年には「理」の復権あらんことを期待したいと思います。皆様もよいお歳をお迎えください。