渡邊大門(歴史学者)

 天正10年(1582)6月2日、京都の本能寺において、織田信長は明智光秀に襲撃され自害した。光秀が謀反を起こした原因については現在までにさまざまな指摘がなされており、いまだに注目を浴びるのは、光秀の背後に黒幕がいたという説だ。最近では、「土橋重治宛 明智光秀書状」(美濃加茂市民ミュージアム所蔵史料)の原本が発見され、光秀が室町幕府の再興を狙ったのではないかという議論が活発になっている。この件については後日詳述する「将軍黒幕説」の中で取り上げたい。

 さらに他にも、朝廷が光秀の黒幕であったという説がこれまでも有力視されていた。つまり、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑(ないがし)ろにしたため、反発した朝廷が光秀を背後から操り、信長を討伐させたというのである。では、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑ろにした事実というのはあったのだろうか。その一つ一つを確認することにしよう。
「宣明暦」吉田光由著 寛永21年(1644)(国立天文台所蔵)
「宣明暦」吉田光由著 寛永21年(1644)(国立天文台所蔵)
 最初に取り上げるのは、暦の問題である。信長はこれまで朝廷が採用していた宣明暦を止めるよう要望し、地方で使用されていた三島暦の採用を強要したといわれている。暦といっても大した問題でないように思われるが、実際は時間の支配に関わるもので大きな意味があった。暦の採用は朝廷の権限に属するものであり、他者が口出しすべき問題ではないということだ。

 信長が三島暦を強要した理由については、これまでどのように考えられてきたのか。一説によると、本来は朝廷の掌中にあった「時の支配」を信長が掌握し、正確な暦法の確立を目指したという指摘がなされている。これを平たくいえば、信長が朝廷の権限の一つを奪取しようと考えたということになる。以下、経緯を見ることにしよう。

 天正10年1月、信長は陰陽頭・土御門久脩(つちみかど ひさなが)が作成した宣明暦を取り止め、尾張国など関東方面で使用していた三島暦の採用を要望した(『晴豊記』など)。こうした要望は異例でもあり、信長が朝廷を圧迫したものの一つと解釈されてきた。

 宣明暦とは中国から伝来した暦法のことで、日本には貞観(じょうがん)元年(859)に伝来した。以来、宣明暦は江戸時代の貞享(じょうきょう)元年(1684)までの約800年間も利用される。しかし、宣明暦には日食や月食の記載があっても、実際には起こらなかったことがたびたびあり、不正確であるという大きな問題があった。そのような事情も加味され、貞享元年以降は渋川春海(しぶかわ はるみ)が作成した貞享暦が用いられるようになる。