2014年を振り返ったとき、重大な出来事としてロシアをめぐる危機があるだろう。米国の指導力低下や、中国の台頭とあわせて、過去25年間続いた冷戦後という時代の終わりの始まりを予感させたからだ。

 ウクライナ政治的混乱から始まった危機は、住民投票を経たクリミアのロシア編入、ウクライナにおける内戦の激化、ロシアの要人を狙い撃ちにした米欧の制裁、ロシアのG8追放と徐々にエスカレートしていった。その後の原油安とルーブル安を、紛争とどこまで関連付けて理解すべきかは意見の分かれるところだろうが、ロシア国内に深刻な不況を招き、世界経済の大きなリスク要因となっていることは間違いない。

 注意すべきは、エスカレートしているのが現場の実際の紛争なのか、国際社会の反応が引き起こしている化学反応の方なのかということである。クリミアの住民がロシアへの編入の過程で見せた反応から言えることは、この問題は日米欧のメディアがわかりやすく切り取るほどには単純でないということだ。複雑な歴史的な背景を持ち、現地の住民のアイデンティティーや、安全認識や、利害認識が複雑に絡み合う問題を、原則論で一刀両断するのはいつだって危険なことである。国際社会が拠って立つべき国際法や、国際正義という概念自体が本質的に多義的である場合には、特にそうである。

 当初から明らかなことは、欧州にも米国にも、クリミアをめぐってロシアとの武力対決を本気で想定している人間はいないということだ。そういう意味では、新冷戦だとレッテルを貼り事態を煽っているのは、メディアのセンセーショナリズムであり、政治家のレトリックであり、茶番である。問題なのは、時にプロでさえ、だんだん問題の本質が見えなくなって、現場で起きている事態と、自分達の反応や思考パターンが作り出してしまった状況とを混同する傾向にあることだ。

 だからこそ、我々が何より恐れるべきは、我々自身の無責任な冷戦思考である。冷戦思考には、様々な悪癖がある。かつて日米欧は、冷戦を戦い抜く戦略という美名の下に無益な戦いと犠牲者達を作り出し、独裁者やテロリストの不正義に目をつぶってきた。しかし、東欧や中央アジアをめぐるロシアの拡張主義というのは、一面の真実ではあっても、問題のすべてではないし、今般の紛争における主要な点でもない。

 しかも、戦略論は、実際には戦略的にも破綻していることが多い。ロシアの協力が得られない中で、混沌が続く中東情勢や、いまだ政治的にも経済的にも脆弱な東欧諸国や、豊富な資源と不安定な民族/宗教構成を抱えた中央アジア諸国とどのように向き合うというのだろう。歴史的にロシアと強い関係を持ち、欧米にとっても日本にとってもいろんな意味で重要なベトナムや、モンゴルや、北朝鮮への影響はどのように考えるのか。足下でロシアを追い詰めている制裁がそこまで想定しているものとは到底思えない。ロシアとの協力可能性という、冷戦後の時代がもたらした果実を過小に見積もってはならないのである。

 もちろん、ウクライナの主権尊重は重要である。第二次大戦後にほぼ確定した国家とその国境線を尊重すべきというのは、戦後社会の知恵だ。民族、宗教、資源などの現実をもとに国境線を引き直していては紛争が絶えないから、現実の利害を、国境線という国際法に無理やり合わせる必要があった。しかし、多くの識者も指摘するとおり、現実と国際法の齟齬があまりに大きくなった場合には、国際法=国境線の方を変えることも例外的には行われてきた。

 日本の対応についても触れよう。気になるのは、一連の事態の進行のなかで「現実主義」を標榜する専門家に垣間見えた、欧米の論調に同調した冷戦ノスタルジーとも思える世界観である。冷戦時代の日本が、西側の一角として、ある意味、実際以上に重要視された牧歌的な時代の記憶から抜け切れないのかもしれない。現代は、グローバル経済の競争はより激しく、日本の重要性は相対的には低くなったけれど、それでも、冷戦の緊張よりはよほどマシな世界なのに。その大局観を忘れてはいけない。相変わらず、情報を完全に欧米に頼っていることも課題だし、欧米と寄り添うことを中心としたメディアの論調にも違和感がある。現政権が取った独自の行動や制裁は、毒にも薬にもならない程度のものである。そこに、理想や大義は感じられないが、うまく立ち回るという意味では大人な対応であると評価すべきだ。

 さて、2014年は国内でも冷戦思考がキーワードになる年であったと思う。7月に閣議決定された集団的自衛権の行使容認と、それをめぐるヒートアップした左右両陣営の戦いのことを言っている。安全保障認識の変化をきっかけとして始まった議論は、例のごとく、憲法解釈の変更を巡る手続き論と、歯止めを巡る細かな法律論へと収斂してしまった。それは、日本という国が軍事力行使の基準をめぐって、実質的な議論が未だできない環境にあることを図らずも指し示している。確かに法治国家である以上、法律論が重要なのは当たり前だ。けれど、安全保障政策の本質は、どのような脅威認識を持ち、どのように安全保障体制を構築し、どのような事態においてなら犠牲を払って軍事行動に踏み切るのかという実質にこそ宿っている。日本は、いまだに特殊日本的な冷戦思考の中にいるのである。

 仮に、日本で実質的な安全保障論議ができたとして、保守からリベラルまで、ウクライナ危機やシリア内戦、イスラム国に象徴されるような他人の紛争に軍事的に関わる気は毛頭ないのではないだろうか。それは、人権や自由のために介入も辞さないリベラルと、国益を狭く定義し武力行使に慎重な保守派の戦いという、欧米の構図とは全く異なる、平和主義国家日本の特性であろう。冷戦思考を乗り越えて実質で語ることができたならば、案外日本にもコンセンサスに近い安全保障認識があるはずなのだ。

 2014年は、冷静後の果実を過小評価するかのような危うい冷戦思考の国際社会と、いまだに法律論でしか安全保障を語れない不毛な冷戦思考の支配が続く国内政治との対比が際立った年だったように思う。