小和田哲男(静岡大学名誉教授)

 九度山で襲居生活を送っていた真田信繁は、なぜ豊臣家の誘いに応じ、大坂城に入ったのか。ただ朽ちるのを待つだけの無為の日々から脱し、人生の最後に武名を残したいという思いがあったことは間違いないだろう。そしてその武名とは、祖父・幸隆、父・昌幸から受け継いだ不敗の軍法と、大敵にも屈することなく立ち向かう「真田の誇り」を賭けたものであった。

信繁へと繋がる真田の系譜


 慶長19年(1614)11月に火蓋が抑られた「大坂冬の陣」。この合戦で一躍武名を上げたのが、真田信繁です。後に「真田幸村」の名で、軍記物や小説が稀代の智将として描いた信繁は、時代や世代を超えて多くの人の心を捉えて離しません。そこでまず、信繁の魅力を語る上で欠かせない「名誉の武門・真田家」とはどんな家なのか、祖父・幸隆からの歴史を辿りながら探ってみましょう。

 信濃の名族・滋野氏に連なる真田一族は代々、信濃国小県を本領としていました。ところが信繁の祖父・幸隆の代に、武田信虎・村上義清・諏訪頼重連合軍の侵攻を受け、先祖伝来の小県を追われることになります。幸隆らは隣国の上野国へ亡命し、本領奪還を悲願として苦難の日々を送りました。

 その後、幸隆は旧敵であるはずの甲斐の武田家に仕官し、武田信玄の家臣団に加わります。信濃制圧を志す信玄の許で、本領回復を果たすためでした。そして外様の新参者でありながら、幸隆は多くの武功をあげて信玄の信頼を獲得、家中で頭角を現わしていきます。特筆すべきは、信玄が大敗を喫した村上義清方の小県・戸石城を、調略を用いて真田の手のみで攻略してのけたことでしょう。信玄の強敵であった村上義清はこれを機に劣勢となり、やがて越後へ遁走。幸隆は功績により、信玄に念願の本領回復を許されるのです。すべてを失くした逆境の中で、奇跡的な所領奪還を果たした幸隆の姿からは、信濃の名族としての誇りとともに、戸石城調略が端的に示す優れた情報収集力と、数を恃まずに戦うゲリラ戦術に長けていたことが窺えます。

真田幸村の父、昌幸の画像(上田市立博物館提供)
 幸隆の跡を継いで真田家を大名家へと発展させたのが、幸隆の三男で信繁の父である昌幸でした。2人の兄が長篠・設楽原の戦いで戦死したため、昌幸が家督を継いだのです。昌幸は幸隆が武田家に仕官した時に、人質として信玄の許へ送られましたが、信玄は早くから昌幸の才を見抜き、近習に抜擢。昌幸は信玄の側近くで、戦略的思考や采配を学ぶ機会を得ました。これが昌幸の類稀な用兵や駆け引きの才を培ったことは間違いないでしょう。信玄が三方ケ原で徳川家康を粉砕した際にも、昌幸は傑出した采配を目のあたりにしています。

 信玄没後、跡を継いだ勝頼からも昌幸は信頼されますが、天正10年(1582)、武田家は織田・徳川連合軍の侵攻により滅亡。領土の大半は織田信長の手に落ち、その信長も本能寺で倒れると、甲斐・信濃は群雄の草刈り場と化しました。小県から上州にかけての小勢力に過ぎない昌幸は、北条氏、徳川氏、上杉氏と、盟約を結ぶ相手を次々に変えて巧みに真田家を存続させます。誰と結べば家を守れるか…昌幸の先を見る目と鋭い嗅覚は信玄の許で培った戦略眼あってのことでしょう。

 また古来、真田家が本領としてきた信濃の山岳地帯は、修験道の聖地です。後世に創作された『真田十勇士』における数々の忍者伝説も、真田家と修験者との関係から生まれたのかもしれません。全国を歩き回る山伏や巫女などのネットワークを使って独自の情報網を築き、積極的に情報を収集していたことは間違いないと思います。

 さらに身代が小さく、山岳地帯を基盤とする真田家の戦い方は、少ない手勢で敵に対抗すべく、必然的に地の利を最大限に活かすものになりました。そして、籠城戦と見せかけて伏兵で敵の裏をかき、戦わずに敵を切り崩す諜報戦や撹乱を行なうなど、ゲリラ戦や調略を得意としたのです。昌幸が、上野国沼田領の帰属をめぐって徳川軍の大軍と戦った天正13年(1585)の第一次上田合戦もその典型的なもので、寡兵で籠城して大敵を引き寄せておき、ゲリラ戦で敵を翻弄、撃退してのけています。こうした戦い方こそ、真田家伝来の軍法の真骨頂といえるでしょう。

 祖父・幸隆の本領を奪還した才覚と、真田家への誇り。父・昌幸の、信玄の許で磨かれた変幻自在の戦略・戦術の才と、戦国最強の武田家への誇り。それらが大敵にも屈することなく立ち向かう「真田の誇り」として、信繁に受け継がれていったといえるのです。