慶長19年(1614)10月、真田幸村(信繁)は豊臣秀頼からの招きに応じ、蟄居先の紀州九度山(和歌山県九度山町)を脱出し、勇躍、大坂城に入った。

 10月1日には、徳川家康が諸大名に大坂攻めへの出陣を命じており、豊臣・徳川両家は既に戦闘状態にあった。

 大坂城は、北には淀川の大河が流れ、西には海が迫り、東は幾筋もの川が流れて広大な湿地帯になっていた。

 大坂城に入城を果たした幸村は、この城の弱点が平坦な陸地の続く南面にあることを見抜き、南惣構堀(空堀)の外側に出丸を構築した。世にいう「真田丸」(真田の出丸)がこれである。

 もっとも幸村に限らず、名将の見るところは同じだったようで、幸村と前後して大坂城に入城した後藤又兵衛(基次)も、同様に出丸構築の必要性を考えていたという。材木まで用意し、準備を進めていたのに、それを出し抜くように幸村が出丸を築いたので、又兵衛は猛然と幸村に抗議し、両者の関係は一時、相当険悪なものになったと伝えられる(『落穂集』)。この真田丸を舞台に激しい攻防戦がおこなわれたのは慶長19年12月4日のことで、徳川方の前田利常・井伊直孝・松平忠直・藤堂高虎らの軍勢が攻め寄せたが、幸村はこれらの大軍をものの見事に手玉にとり、散々な目に遭わせて完勝した。

三光神社境内の「真田の抜け穴」と幸村像  
 では、大坂冬の陣を代表する激戦の舞台となったこの真田丸はいったいどこにあったのであろうか。

 大阪市天王寺区玉造本町の三光神社境内には、幸村が大坂城内との行き来に使ったという「真田の抜け穴」が残り、その脇には鹿角の兜を被って采配を振るう幸村の銅像が立つ。丘陵の西端には幸村と大助親子の菩提を弔うために建立されたと伝えられる心眼寺があり、三光神社の隣には、西南戦争以来の陸軍戦没者の霊を祀る真田山陸軍墓地もあるので、一般には三光神社の鎮座するこの丘陵が「真田山」で、真田丸の故地だと思われている。

 一方で、三光神社の付近一帯が「宰相山公園」となっているように、この丘陵は「宰相山」とも呼ばれる。

 「宰相山」という名称については、寛政10年(1798)刊の『摂津名所図会』に「加賀宰相侯の陣屋この辺(ほとり)にありしよりかくいふなり」とあり、安政2年(1855)刊の『浪華の賑ひ』は「京極宰相侯の陣営、この辺に有りしより、かく号(なづ)くるなるべし」と記す。「加賀宰相」は前田利常、「京極宰相」は京極忠高であるから、いずれにせよ、冬の陣に参戦した徳川方大名の陣所跡に由来するらしい。

 大坂の陣から80年ほど経過した元禄年間(1688~1704)に作製された大坂三郷町絵図は、江戸時代には大坂の基本図として、北・南・天満各組の惣会所などに保管されたが、それらの内の一本である大阪城天守閣所蔵本には心眼寺と坂道(心眼寺坂)を隔てた西側の丘陵に「真田出丸跡」と記され、慶應義塾図書館所蔵本では、同じ丘陵に「真田山」、心眼寺や三光神社がある丘陵には「宰相山」と、両者を明確に書き分けている。したがって、今は丘陵が削られて跡形もないが、幸村が築いた真田丸は、現在の明星学園敷地にあったことは疑いない。

 先の『浪華の賑ひ』では「宰相山稲荷祠」の項に、「俗に真田山といふ」とあるので、「宰相山」と「真田山」の混同は既に江戸時代に始まっていたが、現在は、宰相山のさらに南側に位置する別の丘陵に「真田山公園」があり、地名もここが「真田山町」である。「真田山」の地名は、本来の真田山を離れ、宰相山を経て、また別の場所に移ったのである。
 (大阪城天守閣研究主幹 北川央)