奉納は英霊に、聴衆は「傍観者」


 靖國神社で初めて奉納演奏を行ったのは八代目の湯沢貞宮司がいらしたころなので少なく見積もってもすでに十年は越えたことになる。思い出すのは雨がそぼ降る春、能楽堂の周りには一人の聴衆もいなかったこと。もっとも僕の目的は聴衆ではなく、あくまで英霊に感謝を捧げ、顕彰し演奏を奉納することだったので、コーラス3人従え粛々と歌い始めた。

 歌い出してしばらくすると、境内に響く音楽に誘われたのだろうか、傘をさした人たちがポツリポツリと集まり、奉納が終わるころには、神社側が急遽張ってくれたテントの下に100人ほどの人たちが傍観(僕は傍観者と呼んでいる)していた。

 その後、奉納演奏の時期もみたままつり開催中に移行し、今では愛すべき2千を越す聴衆が毎年傍観してくださっている。

 ある年など奉納当日が雨と予報が出ており、傍観者の方々からホームページ上に「ひろさん、明日の予報は雨ですよ、雨天決行ですか?」という書き込みがあった。さっそく、その問に答える。「雨でも、雪でも、槍が降ろうとも奉納は致します。英霊に対して僕が年に一度奉納をする日だから、元よりお客さんが居ようと居まいと関係ないので決行です…」

 僕が英霊に対して奉納をする。それを脇から傍観している人たちがいる、単にそれだけのことだ。

 だからコンサートの始めに「奉納させていただきます」、終わりに「お楽しみいただけましたか」という気持ちを込め、傍観者の方ではなく、本殿を向いて礼をする。

 心の狭いことで申し訳ないが、ある時、若いバンドから「一緒に奉納をさせてください」と申し入れがあった。「あくまで僕の奉納なので、もしあなたが本気で奉納をしたいと考えているのなら、自分で靖國神社と交渉し、音響と照明、バンドなどを手配して独自におやりください」と丁重にお断りした。奉納の気持ちが曲がっていくのは僕の本意ではないからだ。

能楽堂の舞台からジャズ演奏を英霊に奉納する

 奉納を始めて今年までに湯沢宮司、愛すべき南部利昭宮司(在職中に死去)、京極高晴宮司 、そして現在の徳川康久宮司と四人の方が奉職し、時は移っていったが、我々が奉納演奏することにより靖國神社に参拝する若者が増え、遊就館を訪れて先人の御霊を感じ、正しい歴史認識を持ってもらえることは、とても有意義なことだと感じている。

 また、僕に傍観者と決め付けられているにもかかわらず、演奏開始の二時間以上前から席に着き、暑さの中をお待ちいただいているお年寄りもたくさんおり、皆で歌う歌詞をすっかり覚えていただいた。毎年、共に歌ってくださる傍観者の皆さまには、この場を借りて改めて御礼を申し上げたい。
そして、これからもずっと傍観者でいていただき、僕と共に引き続き英霊を顕彰していただきたい。皆さんの笑顔は、きっとこれからの日本に必要な原動力なのですから。



きっかけは「占領政策の洗脳」


 さて、僕が靖国神社に奉納演奏を始めたきっかけについて書こうと思います。

 まずは出版の世界でタブーだった戦中・戦後の事柄が表に出てきたことに他なりません。つまり、それまで知り得なかった情報がやっと白日の下に晒され始めたということです。

 無類の本好きですから、一度興味を持ってしまうと次々に関連の本を購入し、読みあさっていったわけです。そして「WGIP」に行き着き、実際を知ったのです。
僕は昭和24年の生まれですから「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」真っ最中の戦後っ子です。

 アメリカは夢の叶う国、あらゆる人にチャンスを与える国、音楽やファッションがカッコいい国。同時に銃社会で麻薬が横行し、人種差別があり、殺人や強盗などの犯罪が日常的に起きている危険に充ちた国、自分達の意見を武力を背景に押し通してくる国、日本の同盟国でありながらなかなか日本を理解してくれない国でもある。それなのにアメリカをどうしても嫌いになれない。

 特に音楽をはじめとするポピュラー音楽、そして煌めくステージ文化に関しては、誰もが認める先進国であり、音楽を生業とする僕にとっては未だに〝まぶしい国〟であり続けているというわけです。

 一方、我が国はと言うとGHQが指導した戦後の公職追放やWGIPによって一部教育機関や一部マスコミ、映画界の一部などが左翼化。映画や小説、ドラマでも戦時中の軍部がいかに悪辣であったか、庶民や女子供を泣かせ、近隣諸国に迷惑をかけ、人々を苦しめたかと言う虚像を作り出し、それを教科書にも採用し、子供だった我々の無垢で真っ白な脳に、偏った思想を植え付けたのだ。

 我々は至る所で見聞きするその話を素直に信じて育ち、「日本軍=悪」のイメージを頭の中に少しずつ刷り込まれていった。そして刷り込まれた結果から、アメリカを憎まない心も生まれたのかもしれない。催眠術師は知っていてかける。我々は知らないうちに術にかかるというわけ。嘘も百回つけば真実になっていく? どこかで聞いたセリフである。

生き証言に目が覚める


 それでは、僕がこの事に気付く発端のエピソードを紹介しよう。

 娘がまだ幼稚園のころ、同級生のお祖母さまと話す機会があり、何故か戦時中の話になった。お祖母さまは、現在は防衛省がある東京・市谷の大本営参謀本部にお務めだったそうで、終戦のころの話をいろいろしてくださった。

 昭和20年8月末、米軍が日本に上陸、その数日前から市谷の大本営は書類の焼却に忙殺されていたといいます。毎日毎日、大量の書類が燃やされて、あたりは凄い煙に包まれたのだそうです。その話を聞いた僕、お祖母さまに何気なくこう尋ねる。「やはり戦争犯罪の証拠とか、軍にとって都合の悪いことを隠滅したってことですかね」。お祖母さまは怪訝な顔をされ「何を言ってるのかしら? 先日まで戦っていた敵国が日本に上陸してくるのですよ。敵に国家機密を渡すはずがないじゃないですか」と。

 この時、僕の脳がなにかグルンと半周ひっくり返った。

 そうだ国家機密じゃないか、国家機密は敵国に渡していいわけがない。それすら気が付かない戦後教育の恐ろしさ、教えられたことを疑いもせず鵜呑みにする若い世代の愚かしさ。

 お祖母さまは続けてこうも言った。「私が存じ上げている日本の兵隊さんは、紳士で礼儀正しく正義感にあふれ、崇高なる目的のために命を懸けていらっしゃいました」。そして敗戦の日本を戦勝国が一方的に裁く東京裁判があって「ないことをあったように言われてたくさんの政治家、将校や兵士が無実の罪で殺されていったんですから…そうあの時は『ああ、やられた』って思いました。亜細亜の英雄・日本はいつの間にか連合国軍に悪者にされていたんです」。

 そうですよね! 領土覇権主義を前面に押し出していたのは日本ではなかったわけで、歴史を見ても欧米型の植民地化はしていないのは明らか。自分で自分を守れない国に代わって、日本が現在の駐留米軍のような役割を果たしただけであって、その国民を差別したわけでも搾取したわけでもない。

 ご存じのように日本はもともと資源が豊富な国ではない。石油などは輸入に頼っていたし、鉄鋼なども輸入国であった。その屑鉄や鋼鉄、石油及び航空機燃料などをABCD包囲網により封鎖されてしまい、国民生活は途端に危険にさらされた。

 ちなみに戦時国際法では中立国の権利義務というものがあり、ある国が交戦対象国に経済的圧力を及ぼす目的で、中立国に協力を要請し、中立国がそれに協力することは中立義務違反になるので禁止されている。

 にもかかわらず、どんな手を使ってでも日本を戦争に引きずり込みたい大国がなりふりかまわず経済封鎖をした。資源に乏しい島国日本は戦うにも戦えず、このままでは欧米の言うがままに日清・日露戦争で勝ち取ったすべての権益から手を引かねばならないハメになった。

 もちろん日本は、外交努力を続けており、戦争を避けるべく妥協案を携えてアメリカに幾度となく会談を申し入れた。それも無視され、結局、最後通牒に等しい無理難題の「ハルノート」を突き付けられ、「座して死ぬよりは」と開戦に至ったのです。

ひとが好い日本人

ソウルフルなボーカルは若者を引き付けてやまない

 そもそも戦争とは、国と国との紛争が外交で折り合わない場合に武力をもって解決する手段で、どんな国でも持っている国際的に認められた権利。ところが、外交努力を丹念に続けたとしても、どちらかの国が戦争を選択した時点で戦争は起こってしまうものなのである。

 つまり日本の場合アジア進出を狙っていた大国の策略によって、無理矢理に大東亜戦争から〝太平洋戦争〟に移行させられたようなもので、考えてみれば海に隔てられた島国で育ち、純粋培養で分を守って生きてきた日本人に、地続きで国境を接し領土争奪を繰り返してきた諸外国の如き陰謀・策謀は、とても巡らせられなかったに違いない。

 そして国際的にウブでバカ正直な日本人には当時、この運命は避けがたかったかもしれない。また、今考えれば、日本がもっと国際的に情報発信力を持って、英語や仏語で自分たちの立場を堂々と発信し、世界から理解を得ていれば、結果はもう少し違うものになっていたのかもしれない。

 あのような圧倒的劣勢の中でも、少ない資源、少ない兵力、少ない武器弾薬で、日本はかなり善戦している。戦争末期には特攻の如き捨て鉢な、命を弾にした乱暴な作戦もあったが、その命令さえも潔く受け止めて、国のため散華した勇気ある英霊方を靖國神社はご祭神として祀っている。異を唱える人は、靖國に詣で頭を垂れて、まず英霊を顕彰してから反対意見を述べてほしい。

 ただ無駄死にというなかれ、彼らの死の後にこそ、我々の平和は繋がっているのだから…。
  

「なぜ?」で真実追求を

  
 文京区にある都の戦没者霊苑に碑が建っており、その碑文の冒頭には「あの苦しい戦いの後、四十有余年、私たちは身近に一発の銃声も聞かず、過ごしてきました」とあります。

 思えば毎日どこかで銃声が聞こえ、どこかで人が死んでいる国に比べ、今の日本はなんと平和なのでしょうか?だから靖國神社に詣で「ありがとう」と御礼を言うのです。

 神社に詣で神前で「良い縁談がありますように」とか「宝くじが当たりますように」などとお祈りする人を見かけますが、そもそも神社はそう言った場所ではなく、自分を今まで生かしていただいてありがとうと御礼を申し上げる場所なのだ、ということを覚えておいてほしい。

 さて僕は普段から子供のように「なぜ?」「どうしてそうなるの?」と考える癖がある。

 例えば、日本を悪く言う人たちとその理由、背景を考える。まあ簡単に言えば風が吹くと何故、桶屋が儲かるのか。敵の敵は味方なんじゃないの?のように疑ってみるのだ。

 何故この国はこの様に主張するのか? 沖縄から米軍がいなくなればいま喜ぶ国はどこだろう? 日本の内外で工作資金も工作員も使い情報操作や工作を行う国はどこだろう?

 現在ではせっかくの平和日本でも、このように考える癖をつけないと国際関係は危険過ぎるように思えてならない。このスパイ天国と言われている日本で、誤った思想を真っ直ぐ信じている人々、無関心な人々のなんと多いことか。いろいろな方角から調べれば、真実はすぐわかる。

 もちろん、こんな調べ物、しないで済むならそれに越したことはない。

 反日の勢力が指摘するような日本兵も中にはいたかも知れないけれど、概ね純朴で辛抱強く、情け深く、まじめな人間が多かったと思える。食料がなくて飢死したり、薬もなく風土病に蝕まれて倒れたりする兵の方が多かったと伝えられる南方での戦いにおいても、草や木の根をかじり、耐えに耐えて前進する日本の兵隊は、現在では考えられないほど強固な精神力と強靱な体力に支えられていたからに違いないと思う。

 徴兵は19歳からだったので終戦間際には圧倒的に若い兵が多かったと思うが、靖國神社が頒布している「英霊の言乃葉」に収録されている遺書や手紙、和歌などをひと目見れば、その若さとは思えないような素晴らしい気品と教養あふれる成熟した〝大人の日本人〟を、誰もが感じるだろう。

感謝の気持ちは家庭から

前期高齢者に突入しても「高齢者」という呼び名を吹き飛ばすほどパワフルなステージ

 ここでちょっと僕自身のことに触れたい。僕は幼いころから歌が絶えない家庭で育った。おカネがなくておもちゃを買ってもらえないから、歌のほかに娯楽がなかった。両親は理髪店を営み、若いお弟子さんたちが5人ほど住み込んでいたから、朝は皆で歌いながら掃除をした。もちろん僕も手伝った。中学に進んでドラムをやりたくなり独学した。そんな姿を見ていたからか、高校になるとドラムを習いに行く月謝を払ってくれた。貧乏だったが、両親は食うのに困っても教育にはおカネを惜しまなかった。

 家庭でのしつけも、人としての礼儀作法には厳しかった。学校の式典で国歌を歌うのは当然だったし、両親からも知らず知らずに国を大切にする気持ちを伝えられていた。ところが、かなり前になるが、僕の息子が都内の公立小学校を卒業する際、驚くべきことがあった。「蛍の光」は式次第になく、国歌斉唱では僕ら夫婦以外に誰も立たなかったし、声すら出さなかった。


 「ご起立ください」のアナウンスは「翼をください」を歌う時に初めてあった。

 息子も国歌を歌っていなかったので帰宅して理由を聞いて、さらに驚いた。「だって歌ったことがないから知らないんだもん」。日本の国民を教える公学校なのに、国歌を教えない。今は少し良くなっているようだが、まだ教えない学校はあるようだ。

 平成9年に国立競技場で行われたサッカーW杯アジア予選の日本対ウズベキスタン戦で国歌を独唱した時は対照的だった。僕が歌い始めると、観客がドッと立ち上がった。風圧を感じるほどだった。そして皆で声を合わせた。忘れないでほしいのは、国歌は祖国を敬うと同時に、歌って披露することで相手国への表敬にもなること。だから僕は双方の選手への激励と、わが祖先への感謝を込めて歌った。

 僕は「WILD MUSIC SCHOOL」で若者に音楽のすばらしさを教えてもいる。学びに来た子供には、音楽より先に、レッスン料を払ってくれる親に感謝する気持ちを教える。僕自身、今の自分があるのは両親をはじめ音楽の師匠や仲間のおかげ。感謝の気持ちは僕の原動力だし、その大切さは次世代にも伝えたい。感謝の気持ちを持つというのは、靖國の英霊方に対しても同じなのだ。

「八紘一宇」の理念とは


 日本が大東亜戦争で掲げた理念に「八紘一宇」という理念がある。平たく言うと、全世界をまとめて、一つの家のように仲睦まじくすること、だと僕は解釈する。東京裁判においても、東條英樹の弁護人、清瀬一郎は八紘一宇を、日本の固有の道徳であり、侵略思想ではないと言っている。

 ところが戦後、日本の政治家の口から「戦前は八紘一宇ということで、日本さえよければよい、よその国はどうなってもよい、よその国はつぶれた方がよいというくらいな考え方から出発しておったようであります」や「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった」といった発言があり、生存していた元日本兵の皆さまは、さぞ悔しい気持ちで一杯だったろう。
しかしこの八紘一宇の考えから、ナチスに追われヨーロッパから満州や日本に逃れるユダヤ人を救済した「命のビザ」という美談が生まれた。その杉原千畝が「八紘一宇の精神があるから軍も外務省もユダヤ人を助けた」と言っているのである。

 当時、満洲国で言われていた「五族協和」も似ている。五族とは日本と朝鮮、漢、満洲、モンゴルの五民族を言い、これら民族が協調、協力して行こうという呼びかけであり、前述の「八紘一宇」と基本的に共通の思いを感じる。

 日本の大陸への進出は、侵略と捉える説も多いが、少なくとも侵略が主眼ではなかったと思っている。それは西洋的な植民地、つまり軍事力をもって略奪・簒奪し、言葉を奪い教育をしない植民地とは違い、内地同様の理念や手法で台湾や韓国(当時はどちらも日本国)を経営したことからも、日本の意図が理解できる。

 確かに日本は燃料の確保だったり、ゴムなどの資源の獲得だったり、援蒋ルートを潰すためだったりと、戦端を広げ過ぎて窮地に陥ってしまったが、この「八紘一宇」の精神は日本が敗戦後に現実化して、その理想は達成された。

アジア独立に散ったこと伝えよ


 有色人種で初めて白人と戦って、日露戦争では大国ロシアに勝利、大東亜戦争では連合国の欧米列強を相手に資源も何もない小国が善戦した。こんな日本に刺激を受けて「我々アジア人でも白人と戦えるのだ」と旧植民諸国(驚くことに戦前、アジアの主な国で日本とタイ以外は、いずれも欧米の植民地になるか一部侵略されるかしていた)が発奮した。

 対白人の第一次インドシナ戦争のように旧日本軍の武器で武装、或いは残留日本兵の力を借りて組織的に訓練して戦い、次々独立に成功。アジアからヨーロッパの勢力を駆逐したのだ。その独立運動の大きな流れにスペイン、ポルトガル、イギリス、フランス、オランダなどはアジアの植民地を手放さざるを得なくなった。
その後、遠くアフリカでもどんどん独立が続き、現在の形に近い世界ができ上がったのだ。

 それまでアジア人が独自では成し得なかったことが成功していったのは、すべて日本が大東亜戦争に負けた後のこと。靖國神社にはその大東亜戦争後にアジアの独立戦争に身を捧げ、散華した〝アジアの救世主〟であった日本兵たちの御霊も祀られている。

 このように我々の祖父や曽祖父の時代はまさに戦争の時代、欧米からの独立の時代。そして愛する者のために命を捨てることが自分に課せられた天命と信じ、勇気を鼓舞して困難に向かっていかねばならなかった時代だった。同じアジアの友人のために命を捨てた日本兵たちの矜持は、護られなければならないと思う。 
 靖国に英霊として祀られたのは大東亜戦争の戦没者が213万3千余柱。全英霊が246万6千余柱だから、大半の英霊は大東亜戦争で散華したことがわかる。

 この英霊方を当時のアジア各国要人もこぞって擁護し、褒め称えている。

 しかし、アジアのためにこれだけ力を尽くし命を捧げた英霊、本来なら世界史に燦然と輝く偉業にもかかわらず、不思議なことに戦後は日本国内でも一切語られることはなかったのです。代わりに「あり得ないほど醜く粉飾された日本」が世界の常識として現在も語られているというわけです。

 あろうことか日本人が使う日本の教科書にもその記述はなく、子供たちが〝日本人の誇り〟を持てないばかりか、祖父や曽祖父の時代を貶められ、事実を歪められたまま、隣国から反省や謝罪を強制させられるありさまだ。

 今、日本国中が道を失っている。子供たちが「日本人に生まれて良かった」と誇りを持てるように頑張った祖霊に、尊敬をもって光を当てられる日が来ることを願う。まず現近代史を正しく小中学校で教えること、これこそが急務だと思うのだ。

真の日米同盟がなる日は


 こんなこともあった。

 僕には30年来のアメリカ人の友人がいる。彼とは映画やゴシップから政治まで何でも話すが、ある時、靖國神社が話題になると、彼はこんな質問をしてきた。
「そもそもその神社には戦争犯罪人の骨が何体埋めてあるのか?」

 中韓に加えアメリカまでもが総理大臣の参拝に批判的なので、自分なりに納得できる理由を探していたのだろう。「遺体も遺骨も一体もない」と僕は答えた。どうやら彼はハワイのパンチボール(米国立太平洋記念墓地)やアーリントン国立墓地と靖國神社を同列に考えていたようだ。

 「それじゃなんで他の国があんなにわいわい言うんだい?」と言う彼に、「だから、靖國は国のために命を懸けて亡くなった人たちの魂を祀る場所なんだよ」と僕。
すると彼は「魂なんて形がないじゃないか。何で騒ぐんだ。騒ぐ人たちは日本が死んだ兵隊の魂を自由に操れるとでも思っているのか? それともこれほど平和な日本が世界征服を企んでいるとでも思っているのか? 第二次大戦後一度だって戦争をしていない国をなぜそこまで疑うのか?」。さらに「米軍が駐留している国なのに何故? 日本人は謎めいて何を考えているかわからないなんて、米国人が勝手に作ったイメージだ。自分たちの作ったイメージに自分たちが踊らされて誤解し続けるのか?」と、立て続けに言った。

 2013年に安倍晋三総理はアーリントン国立墓地を訪れ、無名戦士の墓に献花した。しかしアメリカの大統領は戦後70年、一人として靖國神社に詣でていない。友人が言うように、戦争が終了してお互いを認めて同盟を結びながら、これから先も変わることなく日本を疑い続けるのだろうか。危険な国と思い込んで日本の国力を弱めることに腐心し続けるのだろうか。
英霊、戦没者が許すなら一日も早く大統領が靖國に詣でる日が来ることを望む。多分その時初めて戦後は終わり、日本はアメリカの真の同盟国になるのだと思う。

無知は罪、学べ若者よ!


 さて靖國神社には戦後、世界各国や国連の代表が公式に参拝。アメリカの駐日大使や武官も幾度となく参拝している。靖国神社を日本の総理が参拝すると、反日教育をしている中韓に加え、何故に同盟国アメリカまでが「遺憾」を表明するのか、理解に苦しむ。

 正常に考えて、これは異常な事態だ。僕としてはたくさんの友人がいるアメリカが好きだからこそ、こんなアメリカではいてほしくないと願う。
 さて近年、訪日外国人観光客が平成二十五年に一千万人を超えた。ゴミ一つ落ちていない清潔な国、古い文化と新しい文化が融合した国、世界でも希に見る犯罪の少ない安全国家、優しさにあふれた国、テクノロジーの進んだ国、食べ物が新鮮で信用できる国と、なかなか評価が高い我が日本。五輪の開催も決定している。

 しかし「忘れてはいけない歴史」「知らねばならない国の姿」がある。

 本来、靖國神社は散華した英霊を慰霊、顕彰するための神社。「顕彰」とは、命をなげうち平和の礎となった英霊を、褒め称えることだ。それを忘れて、その平和に寄りかかってばかりの人はいないだろうか。

 英霊がありてこそ、今の我々の生活があるという事実を忘れないでいただきたい。敗戦という歴史があったればこそ、今の日本の姿があるのだ。

 僕は靖國神社について考える時、いつも日本人が歩んだ戦後の苦悩を感じる。戦後七十年の節目に日本や世界がこれからどうなっていくのかは予想できないし、未来はいつだって思いがけない方向に跳び、行く先が読めない。

 けれども、過去だけは学び、調べれば教えられ、知ることができる。無知は罪だ。学べ若者たちよ。これからは誰にどんなことを言われても恥じることのない真っ直ぐな道を歩いて行こうではないか。

 日本人の持つ高潔さを愛し、その優しさを信じ、正義を愛する者として。


つのだ・ひろ 昭和24年福島県生まれ。翌年東京に移住、理髪店を営む両親に頼んで中学時代からドラムを始め、高校生でプロデビュー。力強い演奏が評価されて45年「渡辺貞夫カルテット」に加わり、世界で活躍。作詞作曲でも才能は発揮し、日本人離れした太くソウルフルな歌声も手伝って46年発表の名曲「メリー・ジェーン」は今も歌い継がれる。「失恋レストラン」「街角のラブソング」など楽曲も提供。中島みゆきらとも共演している。母校が廃校した経験から、平成14年廃校の滋賀県浅井町(現・長浜市)立中の生徒たちの詞を仕上げ、曲を付けて贈った。新種のブドウを発見し「メリー・ジェーン」と名付けた。総合音楽学校「Wild Music School」校長。漫画家つのだじろうは次兄。