大阪城天守閣は、真田幸村(信繁)のとりもつ歴史的縁により、長野県の上田城と友好城郭提携している。上田城は、幸村の父・真田昌幸が天正11(1583)年に築城を始めた城で、同13年、昌幸はここに2千弱の兵で徳川家康の軍勢7千余を迎え撃ち、見事これを撃退した。

 慶長5(1600)年の関ケ原合戦の際には、昌幸の長男信幸(信之)が家康率いる東軍に与したのに対し、昌幸と次男幸村は石田三成方西軍に味方して、中山道を西上する家康の嫡男・徳川秀忠の大軍3万8千余に、わずか3千の兵で戦いを挑み、秀忠軍を手玉にとって、関ケ原の決戦に遅参させた。

安居神社に建つ「真田幸村戦歿地」の石碑
 けれども、関ケ原合戦そのものは東軍が大勝利を収め、昌幸・幸村親子は信幸の歎願によって助命されたものの、高野山へ配流となり、やがて麓の九度山に移った。昌幸は、慶長年に失意のうちに波瀾万丈の生涯を終えるが、幸村の方は、同19年に大坂冬の陣が勃発するや、豊臣秀頼の招きに応じ、九度山を脱出して勇躍大坂入城を果たした。大坂城の弱点とされる南側に、新たに出丸(真田丸)を築き、同年12月4日に行われたこの出丸をめぐる攻防戦では、またしても徳川方の大軍を散々に破った。

 翌年5月7日の大坂夏の陣最後の決戦では、ここかしこに「真田左衛門佐(幸村)」を名乗る武将が現れ、徳川勢を惑乱する中、幸村自身は家康本陣に突っ込み、あと一歩のところまで家康を追い込んだが、精根尽き果て、田の畔に腰を下ろしているところを、越前藩・松平忠直隊の鉄砲足軽頭・西尾久作(仁左衛門)に首をとられた(『慶長見聞書』)。

 この幸村最期の地を「安居の天神の下」と伝えるのは『大坂御陣覚書』であるが、『銕醤塵芥抄』によると、陣後の首実検には幸村の兜首が3つも出てきたが、西尾久作のとったものだけが、兜に「真田左衛門佐」の名だけでなく、六文銭の家紋もあったので、西尾のとった首が本物とされたという。

 しかし、『真武内伝追加』によると、実は西尾のものも影武者望月宇右衛門の首であったとのことで、西尾の主人・松平忠直は将軍秀忠の兄秀康の嫡男であり、その忠直が幸村の首と主張する以上、将軍にも遠慮があって、否定することはできなかったと記している。

 豊臣秀頼の薩摩落ちを伝える『採要録』は、秀頼とともに真田幸村や木村重成も落ち延びたと記し、幸村は山伏姿に身をやつして、頴娃(えの)郡の浄門ケ嶽の麓に住んだという。

 幸村の兄・信幸の子孫である信濃国松代藩主の真田幸貫は、この異説について調査を行い、その結果報告を見せてもらった肥前国平戸藩の前藩主・松浦静山は、「これに拠れば、幸村大坂に戦死せしには非ず」と、薩摩落ちを肯定する感想を述べている(『甲子夜話続編』)。鹿児島県南九州市頴娃(えい)町には幸村の墓と伝える古い石塔があり、その地名「雪丸(ゆんまい)」は「幸村」の名に由来するという。 
(大阪城天守閣研究主幹 北川央)