では、この「公共の福祉」とは何でしょうか。「公共の福祉」という名目で、「公益」や「公共の安寧秩序」などの抽象的な理由によって、公権力による人権侵害がなされてはならないのは、当然です。通報・指導を含んだ私の当初案が、監視社会に通ずると誤解されたのは遺憾です。そうした誤解は、現在の国政への危惧によって生じたものと考えられますが、断じて私は人権抑圧的な監視社会を企図するものではありません。

 この「公共の福祉」とは、あくまで人権と他の人権とが相互に矛盾・衝突する場合を調整するための原理であると解釈されています(権利の内在的制約)。

 これを本件についてみれば、他の人権とは、まさに「子供の生命・健康」に対する権利です。親の監護権・プライバシー権や喫煙欲求が無制約・無限定に認められるのではなく、あくまで、子供の「生命・健康に対する権利」「心身ともに健やかに成長する権利」「安心して快適に暮らせる権利」との調整において、必要な限度で、親の権利が制約されるのは、やむを得ないと考えます。そもそも受動喫煙は、受ける側にとって何のメリットもない、一方向的な「他者危害」です。
国立がん研究センター
国立がん研究センター
 この条例について、「親・喫煙者の権利」VS「条例・行政」といった対立構図と捉えるのは正しい理解とはいえません。親の権利と子供の権利とを「調整」するのが、この条例です。子供は親の所有物ではなく、独立した尊厳ある存在です。

 前記9月29日及び10月3日の都議会厚生委員会で、他党の都議会議員は、繰り返し「法は家庭に入らず」と述べ、揚げ句、努力義務・啓発の条例であっても、また、権利と権利の「調整」の条例であっても、私的空間への介入である旨主張していました。

 子供の受動喫煙を防止すべきこと、またその啓発をすべきことには賛成し、反対する者は誰もいないなどと述べつつ、条例化には反対、条例ではない啓発にとどめるべきとの意見でした。

 その理由としては、子供の受動喫煙が法律上の「児童虐待」には該当せず、これと同等とはいえないから、ということのようです。

 この論理は、ゼロか百かといった皮相的な議論であり、妥当でないと考えます。法律上の定義に該当すれば、100%同法の適用を受け、他方、定義に該当しなければ、法・条例は一切口出しすべきでない(ゼロ)と言っているようなものです。

 しかし、これまで説明してきたとおり、子供の受動喫煙と児童虐待の共通性・類似点があることから、ゼロと百の間の、少なくとも努力義務・啓発の条例は、早々にスタートすべきと考えています。私個人としては、今回の条例案作成以前に東京都医師会案や豊島区条例案として、義務ではない通報制や行政による指導を含んだ内容の条例案の作成に関与しましたが、それらも法的妥当性を有すると考えています。そうした条例案も、児童虐待防止法に比べれば、規制や介入は謙抑的です。