慶長19(1614)年10月1日、大御所徳川家康は諸大名に大坂攻めを命じた。大坂冬の陣の勃発である。この日、大坂では秀吉没後の豊臣家を支えた家老の片桐且元(かつもと)・貞隆兄弟が徳川幕府への内通を疑われ、大坂城を出て、居城の茨木城へと退去している。

 家康は、10月11日に駿府城(静岡市)を発ち、23日に上洛、二条城に入った。一方、将軍徳川秀忠は、家康が入京した10月23日に江戸城を出陣し、11月10日に伏見城に入った。

 家康・秀忠は11月15日にそれぞれ二条城・伏見城を出陣。家康は大和路を進み、奈良を経て、17日には住吉に到り、住吉大社の社家津守氏宅を本陣とした。秀忠の方は河内路をとり、枚方・枚岡を経て、17日に平野に到着した。全興寺に隣接する野堂町会所が本陣とされたと伝えられる(『平野郷町誌』)。

 翌18日、家康と秀忠は茶臼山で参会し、大坂城を遠望しつつ軍議を行った。このとき、藤堂高虎と本多正信の両人が同席している(『徳川実紀』)。

 そして、12月4日、秀忠は平野から岡山(生野区・御勝山)に本陣を移し、6日には家康が住吉から茶臼山に本陣を移動させた。

膨大な考古学データから再現された大坂の陣当時の上町台地
の地形。真田丸が大坂城から孤立していたことをうかがわせる
(大阪文化財研究所提供)
 この茶臼山の家康本陣、岡山の秀忠本陣の様子は東京国立博物館所蔵の大坂冬の陣図屏風に描かれている。俄か作りとはいえ、いずれも周囲に堀をめぐらし、御殿・望楼を備えた立派な城郭である。

 一方、翌年の大坂夏の陣では、慶長20年5月7日最後の決戦で、豊臣方の智将真田幸村(信繁)が茶臼山に本陣を据えた。

 『難波戦記』は、この日の幸村の出で立ちを「緋威の鎧に抱角打つたる甲、撚附けて猪首に著なし、河原毛の馬、日頃秘蔵しけるに、紅の厚総の鞦懸、金を以て六文銭打つたる木地の鞍置いてぞ乗つたりける」と記すが、大阪城天守閣所蔵の大坂夏の陣図屏風にはまさにこの描写そのままの幸村の勇姿が描かれ、後方には幸村同様の具足に身を固めた嫡男真田大助の姿も見える。

 この日の真田隊は幟・指物・具足を全て赤一色で統一した「赤備え」で、その真田隊が茶臼山に陣取る様子は、まるで「躑躅(つつじ)ノ花ノ咲キタル如ク」鮮やかで、見事なものであったと伝えられる(『先公実録』)。

 幸村はこの日、三度も徳川家康本陣への突撃を繰り返し、家康をあと一歩のところまで追い詰めたが、最期は衆寡敵せず、越前・松平忠直隊の足軽頭西尾久作に首を討たれた。まもなく大坂城が落城。家康は茶臼山に登り、頂上に旗を立て、麓に諸将を集めて勝鬨を挙げたと伝えられる。

 幕末、安政2(1855)年に刊行された『浪華の賑ひ』の「茶臼山」の項に、「慶長・元和の年間、御陣営となる。これより後、当山に登ることを禁ぜらる」とあり、江戸時代には茶臼山が家康ゆかりの「聖跡」として禁足地になっていたことが知られる。しかし、当初は頂上付近だけだったものが、のちに範囲が拡大され、全山が禁足地になったらしい。

 その間の事情を伝えるのは『摂陽奇観』で、同書の宝暦9(1759)年条に「一心寺開帳茶臼山の事」と題する記事がある。それによると、宝暦9年の4月1日から6月1日にかけて、一心寺境内で京都・嵯峨の清凉寺(釈迦堂)の出開帳が行われた。清凉寺の本尊釈迦如来はインドから中国・日本へと伝わった「三国伝来」で、生前の釈迦の姿を写した「生身の釈迦」として篤い信仰を集めた。

 一心寺には、この有名な仏像を一目見ようと、連日多数の参拝客が押し寄せた。この人出を当て込んで、一心寺と茶臼山の間に仮橋が架けられ、茶臼山には仮設の茶店がたくさん建てられた。一心寺を訪れた参拝客は一人につき銭二文を払って仮橋を渡り、茶店での飲食を楽しんだ。

 お蔭で茶臼山はたいそうな賑いとなったが、幕府として、神君家康由緒の「聖地」が庶民の遊興の場と化すのは決して看過できることではない。それまでは頂上周辺に竹垣をめぐらし、立ち入り禁止にしていたが、これ以降は茶臼山の周囲を竹垣で厳重に囲み、全山を禁足地にしたのだという。
(大阪城天守閣館長 北川央)