北原惇(哲学者)

 「ポツダム宣言」受諾の後、日本はアメリカ主導の連合軍に占領され、戦争犯罪を犯したと見なされた人たちが軍事裁判にかけられ、その一部は処刑された。もし「戦争犯罪」なるものが客観的に判定できる人間行動であるならば、戦争犯罪を犯した人間は例外なくすべて同様に罰せられるものと考えたい。残念ながら人間は罪を犯すものであり、罪は罰せられるべきものである。

 しかし現実はそうではない。東京での軍事裁判は日本側の戦争犯罪だけを取り上げ、連合国側の犯した戦争犯罪はすべて無視された。その後の世界でも中国はチベット、東トルキスタン、内モンゴルを侵略して戦争犯罪を犯し、ベトナム戦争では韓国軍が戦争犯罪を犯している。しかしこれらの戦争犯罪は国際的な裁判にはかけられず、戦争犯罪人は罰せられない。本書はこの不条理を取り上げ、戦争犯罪を伝統的な法学の立場からではなく、神経生理学、動物行動学、社会科学、心理学、精神分析などの観点から再考する可能性を提案するものである。

 誤解を避けるために明記しておくが、本書はいわゆる「リビジョニスト」の類の本ではなく、日本は戦争犯罪を犯してはいない、などと主張する本でもない。人間行動が完全無欠ではないのは誰の目にも明らかであろう。したがって東京での極東国際軍事裁判が完全で公平であったとは言えないのも納得できる。本書の目的はできるだけ客観的にそして簡潔にこの裁判について再考し、その後中国と韓国が犯した戦争犯罪について考察するものである。その意味では本書は極東国際軍事裁判を全面的に肯定するわけではなく、また全面的に否定するのでもない。筆者が強調したいのは戦争犯罪は例外なく罰せられなければならない、そして裁判は公正でなければならない、という点である。

 筆者は「右翼」でも「左翼」でもない。このような表現はまったく役に立たず、百害あって一利なしで、これは筆者がすでに別の著書『脱西洋の民主主義へ』などで述べているのでここでは繰り返さない。「リベラル」という表現も現在の日本で用いられている意味では筆者には当てはまらない。しかし「一寸の虫にも五分の魂」という表現があるように、筆者にも考えたり行動するための指針がある。それは「個人の尊厳を最優先にすること」である。この考えは人間の存在を生物学的現象と見なすことから始まる。生物の種であるために人間の多様性は当然の結果であり人類の生存には好ましいと仮定する。ここで多様性とは本来の生物的多様性のほかに心理的多様性、さらには文化・文明的多様性も含む。

 人間という種が多様であることは進化論的に考えて好ましいかもしれないが、多様であるために意見、好み、思想、解釈の違いによる口論、対立、葛藤、戦争などがおこってしまう。その場合、自らの主張にしたがって行動するのは自由の一種で、これは古典的なリベラリズムの用語では「正の自由」と呼ばれる。しかし誰かが「正の自由」を行使すると、その行動の結果を好ましくないと感じ、これを回避したいと反応することもある。この回避したいという反応もやはり一種の自由とみなされ、これは「負の自由」と呼ばれる。「負の自由」は、いじめ、強盗、強姦、などの個人的な場合から外国に侵略されること、空襲、占領、など大規模な国際的な場合にも切実に求められる「こんな事があってはならない、これから逃れたい」という願望である。

 筆者の社会哲学と政治哲学の出発点はすべての人間現象についてこの「負の自由」をできるだけ可能にするという希望である。これは単なる見解であり他人に対しなんらの強制力もない。したがってそのような考えは受け入れられない、と言われてしまえば筆者としても、ああそうですか、と言うしかない。しかし人間が多様であることを考えると、この考え方に共感していただける読者もおられるのではないかとも思える。

 そしてここにこそ筆者が「右翼」にも「左翼」にも反発する理由がある。なぜならどちらの政治思想にも全体主義になる危険性があり、歴史は繰り返し繰り返しそれを示している。全体主義の現実には「右翼」や「左翼」の違いは存在しない。どちらの場合にも個人の存在は無視され、「負の自由」は蹂躙され、個人の尊厳は無視される。更につけ加えれば、いわゆる「民主主義」の国でも個人の尊厳を無視する傾向は大変明確である。政治思想の名前などどうでもよい。筆者は個人の尊厳を無視する社会や政治体制すべてに反発するのである。

 この「負の自由」の必要性を具体的に、そして現実的に表現すると、人間が多様であることをいわば「天から与えられたもの」とでもして(カント式の哲学で言えばアプリオリである)すべての人間の尊厳というものを尊重し、それにもとづいた社会、文化、文明を構築するのが筆者の希望することである。以上の前口上のようなものを念頭にいれて本書を読んでいただきたい。

 なお本書を書くにあたり、フェリス女学院大学の横山安由美教授が絶版になり古書としても入手不可能であった文献の取得にご尽力くださった。この貴重なご援助なしでは本書は書くことができず、ここで心から感謝の意を表したい。

戦争犯罪と極東国際軍事裁判

 
アーミー・デーの行進 アメリカ陸軍記念日(アーミー・デー)を祝う進駐軍の都内行進が行われた =東京・日比谷付近
 我々は「戦争犯罪」という表現をしばしば耳にする。法律、特に国際法に詳しくない一般の人々にとっては、これは戦争に関連して犯された犯罪行為であるという印象を受ける。法律の専門家にとっても大体同じような意味であるが、非専門家の考える概念よりは具体的に定義され、戦争をおこなう場合に交戦の規則に違反した行動が戦争犯罪であるとされている。日本で広く利用されている百科事典を見ると戦争犯罪とは戦争法規に違反する行為(世界大百科事典〔改訂版〕、平凡社、2009年、ならびに日本大百科全書〔第二版〕、小学館、1998年)であると定義されており、戦争法規とは戦争開始と終結に関する法と戦争遂行に関する法であると説明されている(ブリタニカ国際大百科事典〔第三版〕、1996年)。ここで重要なのは戦争をおこなう場合の「法規」という点である。つまり戦争をするにはルールがあり、戦争をする国にはそのようなルールを遵守する義務があるとされ、ルールを無視したりルールに違反した場合に戦争犯罪を犯したことになる。この考え方の基礎に隠れて存在しているのは、戦争そのものは犯罪ではない、という見解である。規則に違反しないかぎりいくらでも戦争をしてよい、いくら戦争をしても犯罪にはならないという理屈になる。
 
 この「戦争犯罪」というものの定義をよく考えてみると、専門家の考える戦争というのは試合やゲームにたいへんよく似ている。野球、フットボール、テニス、柔道、ボクシング、などのスポーツ、そしてかるた、トランプ、麻雀などあらゆる種類の試合やゲームにはすべて詳細に決められた規則があり、そのような規則を遵守して初めて試合やゲームが可能になる。規則に違反した者は警告を受けたり退場させられたり、罰金を課されたり、自動的に負けになったものと見なされる。

 子供のチームが野球やフットボールの試合に勝つと喜び得意になり、他の子供たちに対していばり始める。その反対に負けると悲しみ意気消沈し、時には涙をながしてくやしがる。戦勝国と敗戦国の大人たちも事実上これとまったく同じ反応を示すのも戦争と試合やゲームの類似点を示す現象と言える。

 文化的に見て比較的に複雑ではない社会、以前は「未開社会」などと呼ばれた社会の間の戦争にも細かく決められた規則があり、それが事実上試合やゲームにたいへんよく似ている点は以前から文化人類学者によって指摘されている。またゲーム理論の専門家は戦争や国際間の紛争をゲーム理論の考えを用いて考察しているのも興味ある点である。

戦争犯罪についての前提1と三つの仮定

 専門家の考え方にしたがって、そして上記の簡単な考察から、「戦争犯罪」は戦争に関する各種の規則に違反した場合に発生するものであると定義し、これを前提1とする。

前提1 戦争犯罪とは戦争の行動に関して決められている禁止事項に違反して発生した行動と定義する。具体的には敵の戦闘員を戦闘中に殺すのは戦争犯罪ではないが、同じ戦闘員が捕虜となった場合、それを殺すのは戦争犯罪となる。また非戦闘員である民間人を殺すのも戦争犯罪となる(そのような規定が明記されている場合)。この前提からさらに次の三つの仮定を導き出すことができる。これらの仮定は前提1がその存
在意義を明確にするために必要である。

仮定1 戦争が始まった時点で禁止についての規定が関係国すべてに明確に認識されているものとする。
仮定2 戦争開始時点での禁止の規定は関係国すべての同意なしに一方的に変更、追加、ならびに削除されてはならない。
仮定3 戦争犯罪は戦争に関して規定されている禁止事項に違反した場合にのみ発生するものとみなされるため、戦争行動そのものは犯罪ではない。

 仮定1の意味は明白である。どのような行動をしたら戦争犯罪になるのかすべての関係者が知っておく必要がある。そうでなければ絶えず戦争犯罪を犯す危険性に直面し、どう戦争をしたらよいのかわからない。これは紙の上の議論では明白であるかもしれないが、実際に戦場にかりだされた兵士たちにとっては明確ではない可能性がある。太平洋戦争の結果BC級の戦犯として処罰された被告の中にはそのような可能性が実際に存在していたことが知られている。

 仮定2の意味は、戦争をしているうちに一方が自分たちに有利になるように勝手に規則に手を加えたり、負け戦になっていると意識した側がそれを挽回するために勝手にルールを変更したり、勝つことが予測される国が戦後処理をより有利にするために勝手にルールを変更してはいけない、ということである。この典型的な例は極東国際軍事裁判の法廷で、そしてその後も繰り返し繰り返し取り上げられ議論されている「平和に対する罪」である。これを事後法、つまり罰するために問題の行動がおこった後で決めた法であるとする多くの専門家の強力な意見がある。この「平和に対する罪」で起訴されたのはA級戦犯であった。しかし「平和に対する罪」を事後法と見なせばA級の戦争犯罪はありえず、この罪状によって起訴され処刑された被告たちは実際には国際法に反する不当な処罰をされたことになる。

 仮定3は「戦争犯罪」の定義から導き出される、考えようによっては最も非人道的で危険な仮定である。国際間の規定に従っていれば、つまり規定に違反しない限り、何をどう実行しても罰せられることはない、という論理的な結論である。これは驚くべき指針であり、事実極東国際軍事裁判で日本側の弁護人の一人であったアメリカ人のベン・ブルース・ブレークニーが1946年5月14日の法廷で戦争は犯罪ではないと強力に主張した。この件に関してはのちほど第3章で詳しく述べることにする。


戦争犯罪についての前提2

 前提1と共に考えられる前提として前提2の必要性が考えられる。
 
前提2 戦争に関しての禁止事項は戦争に関わるすべての国、文化、そして文明圏に理解でき、明確に解釈でき、納得できるものでなければならない。

 この前提の意味は交戦国の間の禁止事項についての同意の問題である。2つのよく似た国の間の戦争ではどのような行動が禁止されるべきで、どのような行動なら容認されるべきであるかは問題にならないかもしれない。しかし同じ西洋文明圏の中でもかなりの相違がある2つの国の場合、例えば第二次世界大戦中のフランスとナチスのドイツの場合、この問題は明確に認識されてしまう。

 そして厳密に考えればこれは禁止事項を批准した国についてのみに有効であるとさえ主張することもできる。別の可能性としてある禁止事項を自然法にもとづくものとし、批准なしでも普遍的に適用されてよいと主張できるかもしれない。自然法というのは国や文化・文明の違いに関係なく、人類に普遍的にそして恒久的に存在している法というものがあるという考え方である。しかしこれは国々が自然法を受け入れているという前提があって初めて論理的に可能であり、すべての国が自然法を認めているわけではない。東京での裁判の場合、「平和に対する罪」などはこれがあたかも自然法であり、これが事後法であるかどうかなどという問題には無関係に日本の被告に適用されるものとしていた。

 ここで注意すべき点は、自然法の考えにしたがわない場合、一つの国でも歴史上の時点によって極度に変化してしまう可能性もあることである。ドイツの例を見ればわかるとおり、ナチス台頭以前のドイツ、更にはそれ以前、ドイツが統一された国として国際的に承認された時点のドイツでは、フランスは優れた国、先進国、多くの点で見習うべき国と見なされていた。ナチス支配下のドイツではそれが抜本的に変化し、ドイツは最も優秀な人種の国であるからフランスを侵略して支配するのは当然であるとされた。そしてナチス崩壊後のドイツ、ヨーロッパ連合形成後のドイツではナチスを礼賛したり、ナチスの敬礼をすれば法的に罰せられる。一つの国が時代によって変化するのは特にめずらしくはないが、これは極端な例である。

 これが異なる文明圏の間の戦争、例えば西洋文明圏とイスラム文明圏の間の戦争であれば、どちらの側にとっても明確に理解し、納得できる禁止事項を相互に承認し遵守する可能性は少なくなりうる。この問題を別の角度から見ると、このような条件の下で禁止事項を決定する場合、その内容はいづれかの文明圏の価値観の影響を受けたものになり、それを事実上他の文明圏に強制することとも見なされる。近代と現代の世界では軍事的・経済的に西洋文明が圧倒的な支配をし、その結果西洋文明の価値観が世界を支配してしまう。したがって戦争犯罪の概念も西洋文明の価値観を反映したものになってしまう。
 
 例えば極東国際軍事裁判(以下慣例にしたがってこれを東京裁判と呼ぶことにする)ではアメリカが主導権を握っていた検察側は連合国側を「文明国」とし、日本を野蛮な好戦的な国であると非難し続けた。1946年6月4日の東京裁判の冒頭陳述でキーナン首席検事は「被告らは文明に対し宣戦を布告した」と述べている。
 この発言の基礎にあるものは連合国各国だけが文明をもった優れた国々であり、日本には文明がなかったという考えである。しかし戦争を仕掛けたからといってそれが文明国ではないという証明にはならない。16世紀以来、世界を侵略し植民地化した西洋各国には文明がなかったのであろうか。この問題はむしろ世界の異なった文明間の争いと見るのがより現実的な解釈なのではないだろうか。

 この文明圏の違いから生ずる問題は1948年3月3日の東京裁判においての日本側の最終弁論で鵜沢総明日本側弁護人団長によって述べられている。鵜沢弁護人は古代日本には平和文化が存在していた、日本は鎖国時代には島国の平和な民族であった、しかし欧米諸国の勧誘と圧力によって開国した、世界の独立国と認められてからも軍縮会議に積極的に参加した、しかし世界の大勢から島国に押し込まれる拘束となった、と主張した。

 鵜沢弁護人はさらに次のように陳述をしている。侵略戦争であるかどうかの問題は戦勝国が戦敗国に対して決定するのは一方的である、対立した国々の間で意見が一致せず、異なった主張がなされ、その結果戦争になる場合もある、司法の正義からすると戦勝国も戦敗国も共に被告として審判されるべきである、としている。これらの議論を支えるために鵜沢弁護人は東洋と西洋の数多くの思想家の考えを引用している。


戦争犯罪の問題点


 以上のごく簡単な「戦争犯罪」という概念の考察から明らかになるように、ここには重大な問題になる要素がいくつか含まれている。戦争には二つまたはそれ以上の国が関与する。内戦の場合には2つまたはそれ以上の対立する勢力が存在することから始まる。これらの相対する勢力の間で戦争開始の時点で一体どれだけ「戦争犯罪」について合意ができているのか大いに疑問がある。

 前提1は常識としては存在しているかもしれない。しかしこれがその時点での国際法で明確に規定されているとは限らない。これは仮定1が言及している事項で第二章以後で順次取り上げてゆく問題である。事後法が指摘されたという問題を考えると仮定2も現実には遵守されてはいないと議論できる。仮定3はこれまであまり考えられていなかった問題であり、今後法の専門家に熟考していただきたい点である。

 前提2は異なった文化・文明の間の争いでは最も重大な問題であり、これは東京裁判で明確に存在した。ここでは西洋文明の考え方が裁判の基礎にあり、しかも裁判そのものは英米法の考えにしたがって行われた。国際法と呼ばれる法そのものが西洋文明の産物である事実を考えるとこれを日本というまったく異なった文化・文明の国に適用することができるのかという議論も可能である。
 
 ここで得られる暫定的な結論は、「戦争犯罪」という考えそのものは完全無欠であるどころか、今後解決しなければならない大事な問題を含んでいることである。にもかかわらず、東京裁判では「戦争犯罪」があたかも明確にそして客観的に定義されていた犯罪のように見なされていたのであった。筆者の主張する「個人の尊厳を最優先にする」思想から考えれば、戦争という悪はできるだけ回避されるべきで、戦争に関連して発生したある種の行動を犯罪と見なし、それに伴う罰則は存在すべきである。しかしそこにいたるまでの定義と仮定は明確でなければならない。


「歴史認識」とは


 東京裁判に関連して「歴史認識」という表現が東アジアの近代・現代史を語る場合にしばしば用いられる。これは通常「正しい」という形容詞がその前に付加され、「正しい歴史認識」などという表現がマス・メディアに現われる。そしてこの表現は他の東アジアの国々、特に韓国が盛んに用いている。この場合韓国の言及する「正しい歴史認識」とは日韓併合以来の日本が韓国に対して行った支配すべてを悪事として日本側が正式に認めることとされている。この問題は「歴史認識」と「正しい」という二つの表現を別々に考察する必要がある。

 「歴史認識」という表現も更に2つに分け、「歴史」と「認識」と別々に考察するべきである。歴史とは過去におこった出来事であるが、現在過去を問わず世の中でおこる出来事は星の数ほどあり、それをすべて記録することは不可能である。また記録された出来事のすべてが歴史上の後の時点で人々の知識として知られているとは限らない。一人の人間が知りうる知識は極度に限られており、極端に言えばそれは無に等しい。それでも個人Aの知識は個人Bの知識とは全く同じではない可能性があるので国や社会のように多くの人間の集団ともなれば集団としてはある程度の知識の蓄積も不可能ではない。

 このように極度に限られた人間の知識が何らの制限なしにまったく自由に流通するのであれば歴史の認識もある程度可能かもしれない。しかしそれにははるかに程遠いのが現実である。その理由は数々の選択または排除のメカニズムの存在である。

 どこかに知識が蓄積されていればそれは情報源となりうる。しかしこの知識が社会なり国なりの中で伝達されなければ知識である意味がない。それでは知識が存在しないのと同じである。そして知識の伝達が何らかの形で意図的に操作されている場合には歴史が「正しく」認識されるどころか、全く認識されないことになる。これは全体主義の国では明らかな問題であるが、「自由な」国でも存在する。上部からの政治的な圧力があったり、報道関係者が自主的に判断したり、ロビー活動などをする圧力団体に脅迫されたり、商業放送の場合スポンサーの顔色をうかがったりした結果知識の伝達が阻止されてしまうことにもなる。

 しかも国際関係や国内政治に関わる事項は政治思想に左右されてしまう危険性が大いにある。政治思想が知識の蓄積とその自由な伝達を妨害するのでは「正しい歴史認識」などは不可能である。いわば人間の常として他人の悪事を指摘し非難するのは容易であるが、自分自身の悪事は自ら任意に公表することはしない。

 自身の醜い過去は通常隠しておいたほうが得策であるのでそのように振舞うのが人間である。この点に関しては国でもまったく同じである。このような一般論ではこの問題は理解しにくいかもしれないが、本書で後に述べられる明らかに戦争犯罪である中国のチベット、東トルキスタン、内モンゴルの侵略と民間人の虐待と虐殺、ベトナム戦争でアメリカに次ぐ多くの兵士を送り込んだ韓国軍のベトナムでの民間人の虐待と虐殺などの例によってより理解しやすくなるものと信ずる。


東京裁判にいたるまで


米戦艦「ミズーリ」甲板上で降伏文書調印(ポツダム宣言受諾) 署名する重光葵外相
 アメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、そして中華民国の蒋介石総統の3人がベルリン郊外のポツダムで1945年7月26日に会談をおこない、その結果を連名の文書として発表した。これがいわゆる「ポツダム宣言」である。この文書は13項目からなり、その目的は日本に対し降伏の最終条件を提示し、日本に降伏することを迫ったものであった。ここで注目すべき点はこの宣言は米英中の3国のものでソ連は参加していないことである。日独伊の3国同盟のうち、イタリアはすでに早期に降伏して脱落し、ドイツも1945年5月7日に降伏し、残るは日本だけになっていた。

 ポツダム宣言をただちに受け入れなかった日本はその後2つの原子爆弾の攻撃を受け、8月14日に昭和天皇と日本の首脳部よりなる「御前会議」の結果ポツダム宣言を受諾することとなった。これは直ちに中立国であったスイスとスウェーデンの日本公使館を通じて連合国側に通達され、同日8月14日にアメリカのトルーマン大統領が日本の降伏を公式に発表したのであった。

 その後9月2日に東京湾に停泊したアメリカの戦艦ミズーリ号の上で日本政府を代表した重光葵外務大臣その他の降伏文書署名によって国際法上でも降伏が正式なものとなった。

 その後間髪を入れずにアメリカ主導の形で日本の占領が始まり、日本を根本的に改革して欧米式の民主主義の国にするという占領政策が強制されることになった。占領軍にとって、これらの徹底的な日本改革に必要なことはそれまでの日本を支配した体系をすべて破壊し、その責任者と見なされた者すべてを犯罪者とし処罰することであった。東京裁判はこの考えにもとづいて実行されたのである。したがってその根底に存在していた方針は連合国側の観点から見て好ましくない点、気に入らない点をすべて取り上げ、逆に日本側にとって有利な事実はすべて無視するという裁判なのであった。敗戦と占領という非常事態の場合、このような結果になるのはいわば当然とも言えるが、客観的、そして歴史的な観点からは注目し熟考すべき点である。


東京裁判の特徴


 この裁判を実行するにあたり、連合国側には明確な考えが存在していた。それは仮定と言ってもよいし、仮説と言ってもよいが、むしろ一番現実に近い表現はドグマであろう。その内容は、第二次世界大戦というものは民主主義を信条とする文明国の国々と、これに反対し、世界を侵略しようとした全体主義国家の集団との戦いであった、というものである。これを更に別の形で表現すると、ナチスのドイツもファッシズムのイタリアも軍国主義の日本もすべて同一の侵略思想にもとづいて侵略戦争をし、世界の平和に対する罪を犯した、というものである。

 これはすべてを善と悪、白と黒に二分してしまう西欧文明やキリスト教の教えに従ったものであるかも知れないが、ドイツ、イタリア、日本にはそれぞれ独自の歴史があり、それぞれ独自の事情があり、それぞれの国の地政学的な問題の大きな違いをすべて無視した、あまりにも幼児的な解釈であったと言える。しかしその反面、このような観点からの裁判であれば物事がすべて簡単にすんでしまうという利点もあった。

 歴史の現実はこれよりはるかに複雑であった。日本がドイツと共謀していたという非難にもかかわらず、日本もドイツもお互いに裏切られたという衝撃を受けたことが多々あった。例えば張鼓峰事件と2回にわたるノモンハン事件でソ連と軍事的に戦火を交えていた日本は、1939年8月23日にドイツがソ連と独ソ不侵略条約を締結した際衝撃を受け、その結果平沼内閣は退陣に追い込まれた。この事実は日本側の弁護人の1人、カニンガム弁護人によって1947年6月12日の法廷で述べられている。またドイツはアメリカが参戦することは大きな危険であるのでそれは是非とも回避したいとしていたが、日本が真珠湾を攻撃してアメリカを参戦させてしまったことに驚き、衝撃を受けている。

 日本の終戦に至るまでの指導者たち、そして特に戦争犯罪人と見なされ裁判にかけられた人々の間でさえ、法廷に出てきて初めて会った、などという場合があり、これではとても共謀していたとは言えない。日本の指導者たちは一枚岩ではなかったのである。ローガン弁護人は1947年2月25日の法廷で被告の間に共同謀議はなかったと主張し、それを五項目に分けて弁論した。例えば陸軍と海軍、外交官と陸海軍は対立し、内閣はしばしば分裂し、議会は政府の政策ならびに軍部の勢力から独立し、文官と軍部ははげしく衝突した、したがって共同謀議は不可能であった、と述べている。

ニュールンベルグ裁判の繰り返し


 以上の歴史的事実にもかかわらず、日本はドイツならびにイタリアと共謀したとの考えにもとづいて東京裁判が実行された。その結果この裁判の条例はニュールンベルグですでに始まっていたドイツでの軍事裁判、いわゆるニュールンベルグ裁判での条例をほとんどそのまま丸写しにしたものであった。どちらの条例にもA(平和に対する罪)、B(戦争犯罪)、C(人道に対する罪)の3種類の犯罪が定義されており、書かれている内容は事実上同じである。これらの定義によりA級、B級、C級の3種類の戦争犯罪人が指定されたわけであるが、「平和に対する罪」とは共同謀議によって侵略戦争をおこなった罪、「戦争犯罪」とは戦争の法規または慣例に違反した罪、「人道に対する罪」とは一般人民に対しておこなわれた殺人その他の罪とされている。このように東京裁判でもニュールンベルグの裁判での三種類の戦争犯罪が定義され、これにもとづいて戦争犯罪人が起訴され、有罪と認められた被告は処罰されることになった。

 ここで特に注意しておくべき点、しかも日本でも韓国や中国などの海外でも誤解されているのは、このABCの定義は単なる三種類の犯罪ということでしかない点である。Aが最も重大な罪で、ここに分類された被告は最も重大な犯罪を犯したということではない。したがって韓国や中国が日本の首相その他の政府関係者や国会議員が靖国神社に参拝すると、A級戦犯が祭ってあるから参拝するのはいけない、軍国主義の復活だ、歴史認識をしていない、などと非難をするのは見当違いである。そのように議論するのであれば、すでに歴史的に認識されていた狭義の戦争犯罪や民間人の虐殺などの罪で処刑された被告たち、つまりBC級の被告の霊に参拝するのは軍国主義ではなく、「歴史認識」をしていることになる。ただしABCの分類に言及せず、戦争犯罪人が祭ってあるから首相が靖国神社に参拝するのはいけないと言えばそれは主張としては論理的である。

 もう一つ注意しておく点は東京での裁判はA級に分類された被告だけを扱い、B級とC級の被告は日本以外の場所、つまりマニラ、上海、グアム、シンガポール、クアラランプール、香港、ラングーンなどで裁判をされた。これら3種類の裁判のうち、日本でも海外でもマス・メディアに注目をされていたのはなんといっても東京の市ヶ谷での裁判で、BC級の裁判はあまり外部に知らされずにおこなわれた。
 

ニュールンベルグ裁判と東京裁判の相違点

 ニュールンベルグと東京での二つの裁判は極度に類似したものであるが、違いも存在した。相違点は主として3つある。第一に、連合国側の日本に対する裁判の正式の考えは1943年11月27日に米・英・中の三国がカイロで会合し宣言をした「カイロ宣言」が始まりである。それまでの時点では連合国側は1943年10月20日のロンドンのイギリス外務省で「連合国戦争犯罪委員会」を発足させていたが、それはヨーロッパの事情を念頭にいれたものであった。
 この点に注目した中国大使はアジアも取り上げてもらいたいと提案し、翌年の5月10日に「極東分科委員会」が発足したが、これはその名の示すとおり連合国戦争犯罪委員会の一部でしかなかった。「カイロ宣言」では日本を明確にそして積極的に取り上げ、米・英・中の3国は「日本国の侵略を制止し、且之を罰する為今次の戦争を為しつつあるものなり」と明記している。1945年7月26日の「ポツダム宣言」はこの「カイロ宣言」の考えにもとづき、それを更に具体的にしたもので日本に対する降伏の最終条件を示したことは周知のことである。この宣言の第10項では戦争犯罪人の処罰を明記している。

 第二の相違点はこのポツダム宣言に関連している。これは連合国と日本との関係だけをあつかったもので、ここでは例えばドイツはまったく関係ない。ポツダム宣言を受諾した日本としては当然ながらその後の連合国との関係はすべてポツダム宣言に記された事項にしたがって処理されるものと解釈し、これはその後の誤解と議論の原因となった。

 1946年5月13日の東京裁判において、清瀬一郎弁護人はこの点を指摘し次のように述べている。東京裁判には平和に対する罪と人道に対する罪について裁判する権限はない、なぜなら日本は1945年7月26日のポツダム宣言を受諾しこれに記述されていた第十条の連合国の俘虜に対して残虐行為をした者を含むすべての戦争犯罪者に対して裁判がされるという条項を受け入れた、そして9月2日の降伏文書の署名によってポツダム宣言が確認され受諾された、したがって日本と連合国の両者はポツダム宣言の条項を遵守しなければならない、第10条による起訴と裁判は受け入れるがそれ以外の起訴は受け入れることができない、なぜなら東京裁判にはその権限がないからである、と弁論した。

 清瀬弁護人がなぜこのような主張をしたかという理由は平和に対する罪と人道に対する罪はドイツを裁判にかけた国際軍事裁判条例で初めて明記され、この条例は1945年8月8日に制定された。つまりポツダム宣言の日付より後の時点で決められた罪状であるためである。日本は東京裁判が行われることには同意するがそれはすべてポツダム宣言第10条にしたがって裁判されるものでなければならない、ポツダム宣言発表の後で連合国側が勝手に決めた罪状を持ち出して東京裁判をすることは受け入れられない、という主張である。

 この5月13日の裁判速記録をそのまま引用すると清瀬弁護人は次のように述べている。「7月26日の宣言を解釈するのに、8月8日の資料を以って解釈すると云うことは、矛盾撞着いやしくも法律家のなさざる所であります」。裁判の性質から考えれば当然であろうがこの議論は無視された(このやりとりは現存する映像で詳しく見ることができる)。

 第3の相違点は日本にとって有利となった違いである。それまでの日本人が知っていた西洋の法律は原則的には大陸法、つまりフランスやドイツのようなヨーロッパ大陸の国々の法律であった。ところがこの軍事裁判では裁判長も検察もアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドといったように英米法の国々が支配的であった。裁判が英米法の考えにもとづいておこなわれるのであれば、英米法の考えにしたがった形で法廷の進行を解釈し、英米法の考えにしたがった弁護をしなければならない。ところが現実には日本で英米法に詳しい専門家は非常にすくなく、特に英米法にもとづく国際法の法廷で検察に対決できる日本人の弁護人など皆無であった。例えば英米法では「共同謀議」という概念を持ち出して起訴をしたが、これは大陸法ではあまり用いられない考えで、これに対して弁護する日本側にとっては不利であった。

 この問題を理解した外務省は、アメリカやイギリスなどの英語圏出身で英米法に詳しい弁護人に日本側の弁護を依頼することを提案した。これは日本人の弁護人たちにとっては寝耳に水の発想で、連合国出身の人間が日本人の被告たちを良心的にそして有能に弁護などできるわけがない、と反発した。ことに清瀬一郎弁護人などは大反対であった。しかしニュールンベルグでの裁判ではドイツ人の弁護人しか認められず、それがドイツ側にとって不利になったと理解した日本は、連合国側からの英米法に詳しい弁護人を依頼することで意見がまとまり、外務省の太田三郎終戦戦犯室長がニュージーランド出身のH・ノースクロフト代理裁判長にこのことを要請した。この要請は意外にも好意的に受け入れられ、このような事項に関して最終的な判断をできる権限をもっていた連合国総司令部は1946年3月19日付の書簡でアメリカ人弁護人25人を派遣すると回答した。この回答は約束どおり実行され、このように連合国出身の弁護人が元敵国の被告を弁護した点がニュールンべルグと東京での裁判の3つ目の違いである。(『戦争犯罪と歴史意識 日本・中国・韓国のちがい』より)



北原惇(きたはら・じゅん)  
本名は北原順男(きたはら みちお)。1937 年生まれ。横浜出身。武蔵高校卒。1961 年モンタナ大学(米国モンタナ州ミゾーラ市)卒(社会学と人類学の二専攻)。一九六八年ウプサラ大学(スウェーデン)修士課程修了(社会学専攻)。1971 年ウプサラ大学博士課程修了(社会心理学専攻)。同年哲学博士号を受ける。メリーランド大学、ミシガン大学、サンフランシスコ大学、ニューヨーク州立大学(バッファロ)などでの教職、研究職を経て1997 年までノーデンフェルト・インスティテュート(スウェーデン・イエデボリ市)所長。マーキズ・フーズフーその他海外約20 のフーズフーに経歴掲載。英語の著書はChildren of the Sun (Macmillan,1989), The Tragedy of Evolution (Praeger, 1991), The Entangled Civilization (University Press of America, 1995), The African Revenge (Phoenix Archives, 2003) など。日本語の著書は『なぜ太平洋戦争になったのか』(TBSブリタニカ、2001)、『幼児化する日本人』(リベルタ出版、2005 年)、『生き馬の目を抜く西洋文明』(実践社、2006 年)、『ロック文化が西洋を滅ぼす』(花伝社、2007 年)、『黄色に描かれる西洋人』(花伝社、2007 年)、『現代音楽と現代美術にいたる歴史』(花伝社、2009 年)、『脱西洋の民主主義へ』(花伝社、2009 年)、『ポルトガルの植民地形成と日本人奴隷』(花伝社、2013 年)、『戦争犯罪と歴史意識 日本・中国・韓国のちがい』(花伝社、2014年)