「戦後史開封」東京五輪
産経新聞連載再録(1994年4月2日から5回)※肩書、年齢は当時のまま
1964/ 10/ 10
東京オリンピック 開会式 秋空にクッキリ 航空自衛隊のジェット機五機が描いた青、黄、黒、緑、赤の5つの輪の五輪のマーク=1964年10月10日
 日本中の青空を集めたような、というNHKアナウンサーの名文句で東京オリンピックが開幕した。あれからもう30年、聖火をリレーした若者たちは五十歳前後のオジサン、オバサンになった。日本人が自信を取り戻し、経済大国ニッポンへの分岐点になったといわれる東京五輪の陰には、さまざまなドラマが隠されている。

 昭和34年5月15日、当時自民党の東京都議会議員だった佐々木千里(92)=東京・豊島区在住=は、同僚議員二人らとともに羽田からヨーロッパに向け旅立った。

 第18回オリンピック大会の開催地を決めるための国際オリンピック委員会(IOC)総会がドイツのミュンヘンで開かれる。ここで、IOC委員でもある東龍太郎都知事(故人)ら代表団による東京への誘致活動を側面支援するためである。

 羽田空港には選挙区の支持者たちが、ノボリを持って見送りにきてくれた。オリンピック招致への期待も大きかったが、飛行機で外国に行くのがまだ大変な時代でもあった。

 ベイルートで一泊してまず、IOCの実行委員会と各国の国内委員会の合同会議が開かれているローマへ。ここで、日本の大使が各国委員を集めて、日本料理による夕食会を開いた。佐々木は東京をPRする演説を行う。

 「まず治安維持が世界一確立している。次に世界一食品衛生環境がいい。それに日本は文化国家であると言ったんです。私も何度も選挙をやってきたが、どういう選挙でも、安心して投票してもらうようにするのが一番大切だと思ったからです」

 ミュンヘンでは26日午前、いよいよ開催地を決める投票が行われた。東京は一回目に全58票のうち34票を獲得、対抗馬のデトロイト(米国)やウィーン(オーストリア)に大きく水を開けて開催権を勝ち取った。

 予定よりも早く、しかもあまりにあっさりと決まったため、日本代表団はIOC委員の東と高石真五郎(故人)以外、会場にだれもいなかったぐらいだった。

 東京の“圧勝”に貢献した人は多い。総会での説明役を務めた外交評論家の平沢和重(故人)もその一人だった。外務省のニューヨーク領事から当時NHKの解説委員となっており、後に産経新聞論説顧問などを務める平沢は英語でこう演説する。

 「西洋の人は私たちの土地をファーイースト(極東)といわれる。だが、ジェット機時代の今、もう距離はファーではない。ファーなのは国同士、人間同士の理解なのだ」

 「アジアに何としても聖火を」という平沢の演説はヨーロッパ中心のIOC委員たちの心を打つのに十分だったという。

 だが、佐々木らが「あの人がいなかったら、東京五輪が実現していたかどうか」と口をそろえる陰の功労者が実はもう一人いた。

 日系二世の米国人、フレッド・ワダ(日本名・和田勇)だ。

 ワダは第二次大戦後、ロサンゼルスに食料品スーパーを開き、成功させていた。米国民の対日感情が極めて悪かった昭和24年、ロスでの全米水泳選手権に参加するため訪米してきた古橋広之進(現日本オリンピック委員会会長)ら日本人選手を自宅にあずかったのをきっかけに、日本スポーツ界との交流が始まった。

 そのワダに昭和33年ごろ、当時の首相、岸信介から一通の手紙が届いた。「東京にオリンピックを誘致したいので、中南米諸国を説得してもらえないか」。中南米には10人前後のIOC委員がいたが、米国の影響が強く、デトロイトに投票する可能性が大きかったのだ。

 国にとっての一大事業を実現するのに、その根回しを、日系人とはいえ米国籍の“スーパーのおやじ”に頼るなど、今では考えられないことだが、当時の日本の力からいえばやむを得ないことだった。

 ワダは、これを快く引き受けた。自費でブラジルなど中南米諸国を回り、商売上のパイプを通じてIOC委員と接触。さらに東京五輪誘致委員会ロサンゼルス駐在員の肩書でミュンヘンにも乗り込み、東京への投票を依頼した。

 IOC総会での投票は無記名だが、票差からみて中南米の委員のほとんどは東京に投票したものとみられている。

 当時、ワダの名前もその活躍ぶりも日本国内ではほとんど知られなかった。わずかに朝日新聞がミュンヘンに現れたワダを「全く奇特な老人である」と伝えている。

 そのワダは今もロサンゼルスで健在だ。86歳。東京五輪決定のこともさることながら、自由形六種目のうち五種目を制した古橋らの全米選手権での活躍をきのうのことのようによく覚えている。

 競技終了後、「ワダさんの親切とおいしい食事が勝因です」と感謝する古橋らに、ワダはこう答えたという。「きのうまで私たちはジャップと呼ばれていました。でも(あなたたちが活躍したあとの)今日は、ちゃんとジャパニーズといって握手を求めてきました。ありがとうというのは私たちです」

 アジア初の五輪が実現したことについても、古橋らの活躍に感激した「私の中の日本人の血」がそれを実現させたのですと、自慢することもなく、静かに振り返る。

 それから35年。佐々木は「日本の経済発展のきっかけは東京オリンピックだった。それにわずかでもかかわることができたのを誇りに思う」と言う。

 今や世界中の国々に経済援助をし、スポーツ選手や大会も「カネで買う」と揶揄(やゆ)されることさえある日本。だが、経済成長の起爆剤となった東京五輪が、ワダら無名の人たちの“手弁当”の努力に支えられたことを知る人も少なくなった。 

新宿御苑内に新競技場構想


 昭和34年5月、5年後の東京オリンピック開催が決まった。しかし、メーンスタジアムをどうするのか、選手村は、輸送機関は…と、解決しなければならない難問は山ほどあった。そうした中、神宮外苑にある現在の国立競技場とは別に、新宿御苑内に九万人収容の新競技場を造るという大胆な構想が、文部省関係者の間で持ち上がっていた。

 証言するのは、国の直接のオリンピック担当である文部省体育局の局長を35年3月から37年1月まで務めた杉江清(81)=現日本図書教材協会会長=だ。

 「その当時の神宮の競技場は収容人員が約五万人。しかし、メーンスタジアムとするには九万人に増やす必要があると考えた。しかし、拡張してもそこまではできないだろう。そこで、いっそ新しいのを造ったらと、都心で候補地を探し、新宿御苑の北側の部分はどうだろうということになった。文部省としてはかなり(真剣に)検討し、私も事務次官と一緒に現場を見に行きました」

 杉江が上げた“候補地”は御苑の中で最も新宿駅寄り、現在は「母と子の森」として整備されている一帯だ。御苑全体(約五八ヘクタール)の一部の林を削るだけですみ、神宮の競技場に比べ交通の便も良い。

 だが杉江によると、この構想は当時、御苑を管理していた厚生省にもちかけるまでもなく、文部省の内部検討だけで立ち消えになってしまう。

 「やはり、御苑にというのは相当の理由がなければ無理だろうということだった」と振り返る。

 新宿御苑は、もともとは高遠藩内藤家の下屋敷跡。明治以降は「皇室の庭園」として整備されたが、戦後、厚生省の所管となり国民に開放された。その後は都心の数少ない「憩いの場」として都民に親しまれており、一部とはいえ削ることには反発が強いだろう、との判断だった。

 結局は神宮の競技場を現在の七万人規模に拡張することになった。杉江は「それだけの拡張でも技術的に可能か問題だった。いずれにしても7万人では不十分だった」という。もし、このときに文部省が新競技場建設で押し切っていれば、日本のスポーツ環境や、新宿周辺の景観もだいぶ変わっていただろう。

 現在御苑の管理に当たる環境庁新宿御苑管理事務所の前田稔所長は「そんな話があったというのは初めて。でも、とんでもない話です」と苦笑いする。

 メーンスタジアムとともに、大きな問題だったのが選手村だった。役員・選手約八千人を収容できる土地はおいそれとはない。開催が決まった34年当時には、埼玉県朝霞の米軍キャンプ・ドレイク跡に設置することがほぼ決まっていた。ところが、36年になって突然、渋谷区代々木にあった米軍宿舎「ワシントンハイツ」案が浮上する。

 競技関係者らから「朝霞では競技場まで遠すぎる」とのクレームがあったほか、屋内競技場を建設するためハイツの一部を返還してくれるよう米側と折衝すると、「返還するなら全部でないと」という返事が返ってきたからだった。そこで、渡りに船とハイツを丸ごと調布市に移転させ、選手村と屋内競技場などを造ろうとの案が浮上した。

 ところが、この案に反発したのが東京都だった。都議会はすでに「選手村は朝霞とする」という決議をしている-という理由もあったが、別の事情も隠されていた。

 東京都はいずれワシントンハイツが国に返還されたとき、ここを払い下げてもらい森林公園にする予定だった。国有地を払い下げる場合、公園目的だと無償で、その他の目的、例えば、選手村だと有償となるからだった。

 都の担当者は当時の副知事で現知事の鈴木俊一(83)。鈴木は自治事務次官から内閣官房副長官を経て、五輪開催決定直後の34年6月、副知事になった。

 当時の知事、東龍太郎はIOC(国際オリンピック委員会)委員として国際的に名が通っていたが、行政経験はない。鈴木は当時の自民党幹事長の川島正次郎から「オリンピックもあることだから東君を助けてほしい」といわれており、副知事に起用されたのも、オリンピックに備えてのエース投入だった。

 鈴木が振り返る。「結局、選手村はオリンピック後は公園にするということで払い下げを受けることになった。国の担当が大蔵省主計局長の石野信一君(後に事務次官、太陽神戸銀行会長)で、昔一緒に内閣参事官をやった仲間ですから、『最終的には公園にするのだから無償にしろ』といいました。しかし向こうも『当初は選手村だから』といって九十億円という金額を出して譲らない。結局、間をとって四十五億円ということにしたんです」

 これで解決と思ったら、こんどはNHKがオリンピック後、ハイツ跡の一部を払い下げてもらうよう国と話をつけてしまった。「約束が違う」と、都議会は騒然となった。

 「こちらの方は、国がNHKへの譲渡分に匹敵する別の国有地を都に払い下げることでやっと話がつきました」と鈴木。

 今、明治神宮南側の広大な旧ワシントンハイツ跡は、見事な緑の代々木公園に変身する一方、国立代々木競技場とNHK放送センターがそびえている。当初、選手村としてほぼ決まっていた朝霞の米軍キャンプ・ドレイク跡は現在、陸上自衛隊朝霞駐屯地となっている。

 次から次に出てくる難問。それでも三十九年十月十日の開会式に向け、一歩一歩、準備は進んでいった。

ポスターモデルの学生、実は教師


 昭和39年9月7日正午、東京オリンピックの聖火が沖縄・那覇空港に到着した。

 8月21日にギリシャのオリンピアで採火されたあと、「アジア初の五輪」を強調するかのようにアジアの各都市に立ち寄りながら、国産機「YS11」の空輸機で日本まで運ばれた。途中、空輸機が故障し、沖縄到着が一日遅れるというハプニングもあり、国民をやきもきさせた。

 空輸機から降ろされた聖火を最初に手にしたのは当時22歳、琉球大学四年生の宮城勇(51)=現沖縄国際大教授=だった。

 宮城は大学で剣道をしていて、体育会の中心的メンバーだったことから聖火リレーの第一走者に選ばれた。「3キロほど走りましたが、道路の両側がすごい日の丸で、走るのが大変だったけど、その日の丸に感激したのを覚えています」と振り返る。むろん、当時の沖縄はまだ復帰前だった。

 最初の聖火ランナーを務めたことは、宮城の人生を少なからず変えた。まず、その名前が全国に知られた。

 「その当時は内地に行くのは大変な時代だったのですが、第一走者ということで当時、日活(現にっかつ)の専務だった方の奥さんに特別に招待していただいて東京へ行き、国立競技場で開会式を見ることができました」

 「聖火ランナーを務めたことで、ずっと、いい加減なことをしてはいけないと思い続けてきた」という宮城は大学卒業後七年間高校教師をしたあと、体育学の教授となり、地元の体育教育の指導的立場に立っている。

 聖火は沖縄を一周したあと鹿児島、宮崎、札幌に空輸され、さらに全都道府県を通るように四つのコースに分かれて日本列島をリレーされ、東京に向かう。

 全国4350区間、9829キロを地元の高校生を中心に聖火を持つ正走者に随走者を加えた20人余りのチームでリレー。ランナーの総数は九万六千三百四十七人に上った。

 国をあげての一大セレモニーだった。それだけに、さまざまな予期せぬ出来事をも生んだ。

 山口県では、練習中の中学生が心臓マヒを起こして死亡。兵庫県や千葉県では予定されていた走者が暴力事件を起こしたり、年齢を偽っていたというだけで資格を取り消されたりする騒ぎが起きる。

 後にプロ野球のロッテや西武で活躍した野球評論家の山崎裕之(47)も、せっかく決まっていた走者を取り消されそうになった。当時、埼玉県立上尾高校三年生で「長嶋2世」とまでいわれるスラッガーだった山崎は学校からの推薦で、上尾市内を走ることになっていた。

 ところが、一部のマスコミから「山崎君はプロ野球に入ることが確実なのだから、アマチュアに限るとした聖火ランナーの資格に触れるのでは」とクレームをつけられたのだ。

 「確かにそういうことを書かれたのは知っているけど、ちゃんと走りましたよ。新聞が騒いだだけで、僕はまだ入団が決まってたわけでもなかったから。でも、当時は野球ひと筋だったから、聖火を運んだ感じといってもあまり…」

 多くの若者を巻き込んだ安保騒動から4年。オリンピック組織委員会もマスコミも無意識のうちに、聖火リレーのランナーに日本の“理想的青年像”を見いだそうとしていたのかもしれない

 実をいうと、ホンモノの聖火が到着する前に「聖火ランナー」になった青年がいた。

 順天堂大陸上部出身で、東京・北区にある私立聖学院高校の体育教諭、田中良明(53)は39年2月のある日、関係していたオリンピック青年協議会(OIC)から「オリンピックのポスターの撮影をするから」と、新荒川の堤防に呼び出された。寒い中、聖火のトーチを持って堤防上を何度も走らされた。

 「でも、最後まで自分がモデルだとは考えなかった。第一、モデルは若さを象徴するために学生を起用するという話だった。私はすでに卒業して勤めていました。それに私は短距離が専門で長距離みたいなきれいな走りはできない。最終的には当時順大の後輩の沢木啓祐(メキシコ、ミュンヘン両五輪代表、現順大陸上部監督)あたりがやって、私はそのテスト撮影だとぐらいに思っていました」

 だが結局、そのまま田中がモデルになって四枚目になる公式ポスターが完成した。奇妙なことに、そのころすでに別の高校で非常勤講師をしていた田中が「順大3年生」ということで発表され、当時の新聞にもそのまま載った。

 図らずも“ニセ学生”を演じることになった田中は「どうしてそうなったのか、今でもよくわからない」というが、ここでも、組織委員会側が「イメージ」にこだわっていたことがうかがえるようだ。

 田中もポスターのモデルになったことでその後、東京五輪PRのためソ連に行ったり、オリンピック期間中、選手村で外国人選手の世話に当たるなどオリンピックと深いかかわりをもつことになる。

 「自分があれだけの祭典にかかわれたということは感激です。しかし、オリンピックそのものを見ると、スポーツをあんなに“道”にすることはないのではないかと思う。もっと単純に汗を流せばいいのでは」と、田中は意外にもクールな反応だ。

 ともあれ、十万人の若者の手で運ばれた聖火は10月10日、最終ランナーに選ばれた坂井義則(四八)=当時早大1年、現フジテレビスポーツ局勤務=の手で国立競技場の聖火台に灯され、オリンピック東京大会は開幕した。

命かけた競技見つめた小野夫人


1964/ 10/ 10
東京オリンピック 開会式で日の丸を先頭に日本選手団が入場 入場行進 =1964/ 10/ 10、東京都・新宿区・国立競技場
 昭和39年10月20日、東京・千駄ケ谷の東京体育館。女子体操選手としてオリンピックに出場していた小野清子(58)=現自民党参院議員=は、二階の観覧席から、一階のフロアで繰り広げられる男子の体操競技を食い入るように見つめていた。

 視線の先では、夫の小野喬(62)=現二階堂学園常務理事=が団体自由演技の最初の種目、鉄棒の競技を始めていた。

 小野はメルボルン、ローマ両五輪の鉄棒で連覇、「小野に鉄棒」といわれた通り、鉄棒が得意だった。ところが、この時点で体はズタズタになっていた。肩の痛みが引かず、痛み止めの注射を打ったらこんどは肩が全く上がらなくなった。もう一度神経を戻すために鍼(はり)を打つという状態だった。

 清子は競技の前に選手の集合場所にいた小野を見付けた。日本では五輪史上初のママさん選手だった清子は「パパ、うちは子供もいるのだから、よく考えてね」。小野は「わかってるよ」と小さく答えたが、清子は「命を落としてでもやり抜こうと思っていたんじゃないですか」という。

 体操の男子団体には金メダルの期待がかかっていた。もっとも団体の場合、6六人が競技し、種目ごとに一番成績の悪い一人を除いた5人の点数の合計で順位が決まる。5人が高い点数を取れば、最後の一人は棄権しても構わないわけだ。

 「ところが、一番安定感のある鶴見(修治)さんが落下して(得点9・25)、どうしても主人が競技しなければ、優勝できないということで、やらなければならなくなったのです」

 清子はいたたまれない気持ちのまま、観覧席に陣取った。

 「手をもちかえたり、両手を離してまた鉄棒を握ったりするとき一拍ずつ遅れるのがわかるのです。今にも落ちるのではないかと。終わったとき、一緒にいた女子選手は泣いていましたが、私は『生きていて終わった』という感じで、涙を通り越して笑顔でいました」

 小野は見事に二回宙返りの着地を決め、9・70の高得点を出し、男子団体も優勝、日本選手団主将の重責を果たした。

 アジアで初のオリンピックを主催することになった日本にとって、大会運営の成功もさることながら、主催国として「恥ずかしくない成績」を上げることもまた、至上命題だった。

 かつての「フジヤマのトビウオ」といわれた名スイマーで、東京五輪では大島鎌吉選手団長(元陸上選手、故人)の秘書を務めていた古橋広之進(六五)=現日本オリンピック委員会会長=によると当初、日本選手団としては10以上の金メダルを目指していた。ところが大島が「15個以上は取れる」とぶちあげるのでヒヤヒヤしたという。

 「でもそのために、大島さんは旅行中でも午前四時ごろから起きて、運動生理学なんかの本を原書で読んでました」と振り返る。

 最も金メダルの期待の強かった女子バレーボールチームの中心選手たちは37年、モスクワでの世界選手権での優勝を花道に引退するつもりだった。ところが、周囲の熱い期待や説得で、さらに2年間すさまじいばかりの練習に耐えることになる。

 主将だった河西(現中村)昌枝は後に「もはや自分たちの意思では進退を決められなかったのです」(夕刊フジ「私の流儀」=平成3年11月6日付)と語っている。

 悲壮ともいえる指導者たちの意気込みや選手たちの踏ん張りで、結果的には金十六個、銀五個、銅八個のメダルを獲得、面目をほどこした。


 陸上80メートルハードルで、マラソンを除く女子の陸上トラック競技として戦後ただ一人の入賞(5位)を果たした依田郁子(後に結婚して宮丸郁子)も、そうした重圧と闘った一人だった。

 依田はオリンピックから十九年たった昭和58年、45歳で自らの命を断った。茨城県つくば市にある依田の夫、宮丸凱史(五六)=筑波大体育科学系教授=の自宅には、数10冊に上る依田のノートが残されている。

 10年以上にわたり毎日の練習日程を記したものだ。一本の線を引き、その線に沿って、何時に起きて何時何分に電車に乗って練習場へ行き、何時から何メートル走る-という予定が極めて詳細に書いてある。バナナ一本をここで食べるということまで記入されている。

 依田は、レースのスタート前になると、口笛を吹き、ほうきでスタート付近を掃き、くるりと逆立ちをする-というお決まりの“手順”が、すっかりおなじみになっていた。

 「あれは自分を集中させるため、練習でやっていたことをそのままやっていたのですね。人にはいろいろいわれたけど、あれだけやらないと、おさまらなかったのだと言ってました」と宮丸は回想する。

 「実は、彼女はオリンピックのときも自分のレースまでは選手村には入らかったのです。立川の会社の寮でいつもの通り過ごし、いつもの通り中央線に乗って競技場にきていた。プレッシャーに対して、私は私のやり方でやらしてもらうということだったのですね」

 こうした徹底した自己管理で、プレッシャーをはねのけた依田だったが、人生の重圧には勝てなかった。やはり、マラソンで銅メダルを得たあと、自殺した円谷幸吉とともに忘れることのできないオリンピック群像である。

2回も約束破った100メートルの王者


 オリンピックとアスファルト舗装。一見、何の関係もなさそうだが、今ではごく普通に行われているアスファルトによる道路舗装が実は、東京五輪の副産物なのだという。

 東京都の技術部門を統括する技監の石川金治によると、そのわけはこうだ。

 「それまでは日本では道路舗装といえば、セメントがほとんど。石油がないからアスファルトはやらなかった。しかし、オリンピックの道路整備で開会式直前でないとできない道もある。固まるのが遅いセメント舗装では間に合わないというのでアスファルトを使ったのです」

 道路舗装はほとんどアスファルトで行われることになるのはそれからのことだった。

 オリンピックによって、東京の町は一変したといわれる。

 外国人の選手や観客が到着する羽田空港と、都心や選手村のある代々木の間を、ビルの谷間を縫うように高速道路が走った。首都高速1号線。続いて3号線、4号線。都心を走る高速道路時代の幕開けだった。

 一般道路も環状や放射四号線(青山通り)など22の道路が新設されたり、拡幅されたりした。

 地下鉄の路線も増え、下水道の普及率(区部)も20%から26%にまで伸びた。

 「古き良き東京が消える」との批判もあった。だが、オリンピックを成功させるため内閣官房副長官から東京都副知事に送り込まれた現知事の鈴木俊一(83)は「オリンピックによって東京の西側部分は首都らしく、国際都市らしく整備が進んだ」と自負する。その上で「ただ、東側部分までは手がつかず遅れた。だから知事になったときに、真っ先に東側部分の整備を進めようと思った」と総括する。

 東京と大阪を結ぶ国鉄新幹線もオリンピックに合わせて建設を急ぎ、開会式の9日前の10月1日、慌ただしく営業運転を始めた。新幹線も含めオリンピック関連でつぎ込まれた金は1兆円を超えた。この額は現在では、約10兆円に相当するという。

 だが、オリンピックで変わったのは町ばかりではなかった。

 「非婚時代」などの作品で知られる作家の吉廣紀代子は、昭和38年、大学を出てすぐ、スポーツの報知新聞社に入社した。

 女性のスポーツ記者は極めて珍しいころだった。オリンピックで、女子選手村には女性しか入れないとわかり、各新聞社ともにわかに女性記者やカメラマンを集めていた。吉廣は特に英会話ができることを買われての入社だった。

 翌年、オリンピックが開幕すると、吉廣は女子選手村を根城に、男女の別なく英語圏の選手を中心に取材することになる。

 「おっかない人」と感じた“水の女王”ドン・フレイザー(豪)や、大会中に自国が独立、喜んでいたザンビア(アフリカ)の女子選手たちが印象に残っている。中でも強烈だったのが、陸上男子100メートルの王者、ボブ・ヘイズ(米国)だった。

 後にプロフットボールの選手に転向するヘイズは、この大会でも最も注目された選手の一人だった。で、選手村の食堂でつかまえ、「エクスキューズ・ミー、報知新聞のものですが、インタビューさせてください」と取材を申し込んだ。

 「オーケー、じゃあ一時間後に」

 「ここでいいの」

 「イエス、イエス」

 ところが、一時間後にその場所へ行っても、ヘイズは来ない。仕方なく、もう一度申し込んで約束の場所へ行くと、こんども現れない。

 「私が女だから軽く見られたんだ」と怒っていると、やはりヘイズにすっぽかされたらしい記者が何人もたむろしている。

 やがて100メートルのレースが行われ、ヘイズは予想通り10秒0のタイムで優勝する。

 吉廣はもう一度ヘイズと会う機会があったときに、抗議した。「あなたは時間と場所まで約束したのに、一回も会ってくれなかったじゃないですか」

 だが、ヘイズは平然として答えた。「そんなこと知らないよ。時間? 僕にとって時間は10秒フラットしかないんだよ」

 「オリンピックにきていた二週間の間、彼の頭の中にあったのはピストルの音を聞いて10秒で走ることしか頭になかったのですね。約束してもそんな自覚もなかったわけ。なるほど、頭のてっぺんから足の先までそうならなければ、オリンピックで優勝するなんてできっこないんだなって思いました」

 吉廣は「ヘイズのことばかりでなく、オリンピックを経験して私の人生観が変わった」という。

 「日本人とだけいると、みんな似たりよったりで、その枠からはみ出す者に対して異端視するところがあるのですが、それは絶対間違っていると思いましたね。私自身若かったし、驚いたことをダイレクトに吸い込んで、カルチャーショックを含めていろんなものがシャワーのように入ってきたというところがあります。世界一周したみたいで、もうけたなと思いました」

 日本人がこれだけ多くの外国人と接点をもったのはこの東京五輪が初めてであった。

 10月24日夜行われた閉会式。厳粛な閉会式のイメージを破り、自由奔放にはしゃぐ外国人選手たちに、多くの日本人も吉廣と同じことを感じたに違いない。そしてオリンピックを終えた日本は、本格的な高度成長へ、国際化時代へと進んでいく。(文中敬称略)