「戦後史開封」ロッキード事件

産経新聞連載再録(平成6年12月13日から5回)※肩書、年齢等は当時のまま

 総理大臣経験者の逮捕にまで発展した昭和51年のロッキード事件は、まぎれもなく戦後最大の疑獄事件であった。その衝撃は深刻な政治不信を生み、現在の政界再編にまでつながっているが、今、振り返ってみると、事件には依然として“なぞ”のまま残っている部分も多い。

 51年7月27日午前4時半、日比谷公園と道を隔てた東京地検地下の通称“鳥小屋”と呼ばれる仮眠所で、寝返りばかり打っていた特捜部検事、松田昇(61)=現法務省矯正局長=は、覚悟を決めたかのように起き上がった。

 同5時、松田のほか特捜部資料課の田山太市郎課長ら3人を乗せた車が地検裏口からひっそりと、東京・目白台に向け出発した。前夜、ある記者が守衛に「松田さん、家に帰っていないな。変なんだよな」と言っていたことがわかり、1時間繰り上げたのだ。時間調整と心を鎮めるために東京・九段の靖国神社に参拝する。

 午前6時半、元首相、田中角栄(故人)の私邸の150メートル手前で車を止めた。1人を車に残し、別々に歩いて田中邸を目指す。門前近くのタクシー後部座席に、前のシートに足をあげ、松田らをうかがう一見してマスコミ風の男がいた。松田らは素知らぬ顔で進んだ。男は公衆電話に向かって走っていった。しかし、田中邸を出るときの写真は、どのマスコミにも出なかった。今もって、なぞだ。

 私邸の玄関のブザーで応対に出た書生に「田中先生にお目にかかりたい」と名刺を渡すと、応接間に通され、書生は2階に駆け上がった。田中はなかなか降りてはこない。田山は「何かあるといけませんから見てきましょうか」と言った。しかし松田は「気持を整えながら着替えをされているのだろう。まあ待とう」と制した。

 20分もたっただろうか。背広姿の田中が現れた。座りもせず、いきなり「君が松田君か」と言う。

 松田「そうです」

 田中「今日は早いね」

 松田「ゴルフに出掛けられることもあるかと思いまして、お迎えに上がりました。これから地検に参りますが」

 田中「ウンウン。ところで、君は等々力(児玉誉士夫邸の住所)担当じゃなかったかね」

 松田「よく御存知ですね」

 田中「入省は何年かね」

 田中と接した人の多くは、こうした田中の記憶力と人懐っこさに魅せられるが、検事の場合「何年入省」という言い方はしないので、松田はちょっと戸惑ってから「検事に任官して13年というところです」と答えると「大したもんだなあ」

 事態をいち早く悟った田中の回転、そして2人のエスプリや適度の威厳によって、話はそれなりにスムーズに運んだ。

 田中は家人に「家のことをしっかりな」と言い残して家を出た。車中、松田が「地検正門に着くと、マスコミがいるかもしれませんが」と尋ねると、「いやかまわん」と答えた。

 地検正門に着いたのは午前7時27分。すぐに5階の取調室に入った。テーブルを挟み向かって右に検事正の高瀬礼二(78)、左に取り調べにあたる石黒久あき・特捜部副部長が座った。高瀬が口を開いた。

 「前総理の田中さんに、このような形でお目にかかるとは誠に残念です」

 高瀬は特捜部検事時代、関西のある地検からの捜査嘱託で、参考人として田中から話を聞いたことがあった。高瀬が「夏のさなかで、今のように扇子を使っておられましたが、田中さんに『検事さんの仕事も大変ですね』と言われました」と話した。田中は扇子を止めて、急にしんみりし、「忘れちゃったなあ。覚えておけばよかったなあ」と言った。

 8時50分、逮捕状が執行された。合同捜査本部の一翼を成す警視総監の土田国保(72)ですら「知らされていなかった」極秘の逮捕劇だった。

 田中は過去に総理経験者が逮捕されたかどうか、尋ねた。

 高瀬は、昭和電工事件(23年5月)の芦田均を例に挙げ、「しかし、総理ご在任中の事実で逮捕されたのは、田中さんが初めてでしょうね」と付け加えると「イヤー、初めてか」と苦笑いした。田中は、よほどこのことが気になったのか、東京拘置所に行く車の中で、松田にも同じ質問を繰り返している。

 2時間後、取調室を出る際、高瀬が「これから環境が変わられるので、どうかお体に十分、お気を付け下さい」と気遣うと、右手を挙げて例のポーズを取りながら「ありがとう」を3度繰り返した。

 再び取調室に姿を見せた松田が「さあ、参りましょうか」と促すと、田中は立ち上がった。「手錠は考えなかった」という。

 拘置所までの道中を考え、5階のトイレで2人は並んだ。手を洗った田中の手には、ハンカチ代わりに手をふいたちり紙がボロボロになってひっついていた。それを見た松田が「暑い折ですから、どうぞお使いください」とセロハンに入った真新しいハンカチを渡すと、田中は「いや、ありがとう」とポケットにしまった。

 「汗かきと聞いていたし、地下の売店で念のため前日、ハンカチを買った」という。

 田中が保釈されてからしばらくたった9月初め、秘書が洗濯したハンカチを返しに来た。田中の自筆の手紙が添えられていた。

 『御高配いたゞき心からお禮申し上げます。借用のタオルお返しいたします。いずれの日にか御拝眉のおりお禮申し述べ度いと存じます』

 松田は59年春から事件の控訴審を担当する東京高検特別公判部長となり、田中弁護団の切り札である笠原運転手のアリバイ主張を切り崩した。だが、法廷に田中の姿はなく、「拝眉」は実現しなかった。返されたハンカチは今も大事に持っている。


 田中角栄元首相の逮捕からさかのぼること4カ月余り。昭和51年3月4日午後3時過ぎ、東京・等々力の児玉誉士夫=当時(65)=(故人)邸で、東京地検による在宅取り調べが始まった。

 1年半前に脳血栓で倒れた児玉は、2階和室で点滴を受けていた。ふとんに寝た児玉の向こう側に妻、手前にはやがて田中を迎え行くことになる東京地検特捜部検事、松田昇(61)=現法務省矯正局長=が座った。足元からやや離れたところに、「短時間ならば」と、聴取に決断を下した主治医の喜多村孝一・東京女子医大教授が付き添った。

 「日本の黒幕」といわれた児玉だったが、倒れた後、高血圧のためまぶしくて目を開けていられない『羞明(しゅうめい)』症状があり、部屋は暗くされていた。まるで、司祭が臨終の床にある信徒に最後の祈りをささげるキリスト教の『終油の秘跡』を描いた宗教画を思わせた。

 2月4日、米上院多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)での公聴会で、ロッキード社のカネが、児玉や丸紅を通じて日本の政府高官に流れ、航空機導入が決定された疑惑が明らかにされた。以来、それなりに安定していた児玉の病状は悪化、国会喚問にも出られないようになった。

 敬愛する特攻隊の生みの親、大西滝治郎海軍中将が床の間の壁に映る-と叫ぶなど、幻覚を見る『失見当識』症状に陥った時期もあったほどだ。

 一方、「逮捕は絶望的でも、せめて取り調べを」と願う検察側は、児玉に取りつく病魔に加え、時間とのきわどい神経戦を強いられた。47年分の『8億5千万円』の脱税についての時効が、10日後の14日に迫っていた。

 松田は児玉に問いかけた。

 「ロッキード社を知っていますか」

 「どのような関係ですか」

 「契約書は作りましたか」

 「ロッキード社からカネをもらったことがありますか」

 児玉は初めての調べに、金額はともかくロッキード社の顧問であること、同社からカネをもらっていたことを真摯(しんし)に答えた。児玉の声はややロレツが回らず、ゆっくりとしたものだった。

 10分ほどのやりとりの後、ドクター・ストップがかかった。疲労に加え、上空を舞うマスコミのヘリコプターの音で、「マスコミの報道はひどい」と、いらだちを見せ始めたからだった。

 はやる気持ちを抑え、階下の食堂で調書用紙に一気に書き起こした。松田にとって「たった数枚のこの調書がまるで貴重な宝石のように思えた。早く書かないとそれがこぼれ落ちるような感じさえした」。病状が安定した1時間半後、教授が再び面会を承諾した。

 松田は緊張の場面を振り返る。調書を読んで聞かせ、間違いがないか確認させる“ヨミキケ”の後、「署名しますか」という松田に児玉は「します」と答えた。だが、あおむけになったまま、調書を挟んだ画板をじっと見つめていた。

 躊躇(ちゅうちょ)したのか、自らの運命を考えているのか。ところが、児玉は思いもかけないことを口走った。

 「検事さん、『よしお』という漢字を思いだせないんですが…」

 松田が「ああ、書ける字で結構ですよ」と言うと、調書の末尾に『児玉ヨシヲ』と署名した。筆圧がなくわずかに流れていたが、松田は「『ヲ』というカタカナに明治の男を感じた」。

 松田はこの日のために、児玉の自伝や草柳大蔵の『特攻の思想』などを精読していた。以後、松田による在宅調べは70回にも及ぶ。

 2回目の調べは3月7日の夕方。児玉はいきなり「検事さん、ロウソクを知っていますか。ロウソクは最後は赤く燃え、細くなります。私の命も短くなっていることが自分でわかります。今のうちに検事さんに聞いてもらいたい」と語りかけた。

 松田がロッキード社から受領したカネの流れを問いただすうち、児玉は「債券を買ったはず」と言う。しかし、2月24日の家宅捜索の指揮官を務めた松田は、その債券がどこからも発見されていないことを知っていた。

 「実はある所にふろしきに入れて預けてあります。この債券を検事さんに提出します」

 その債券は6億円ものワリフドーで脱税の捜査に欠かせない“たまり(財産)”となる貴重な証拠であった。

 9月に入り「今月で交代するかもしれません」と告げると、児玉のほおに涙が伝わった。「ご繁栄をお祈りします」と言って、差し出された両手を松田は黙って握った。児玉は一時的に快方に向かうが、脳梗塞(こうそく)で倒れ、59年1月72歳でこの世を去る。

 松田の手元には、児玉の死後数年たって、遺族が「ゆかりの人」に贈った児玉の著書の英訳本が残った。

 児玉の筆頭秘書で自らも外為法違反にとわれた現東京スポーツ新聞社社長、太刀川恒夫(57)は、東京・池上本門寺の児玉の墓の後ろに、自分の墓を建てた。隣が空いていたが、あえて後ろの他人の墓を譲ってもらったという。

 「児玉のレベルに達せられないから、後ろが相応」というのが理由だが、「生まれ変わっても一緒にいたい」との願いもある。

 児玉は田中以外のある自民党実力者をかばい、墓の下まで真相を持っていったといわれているが、太刀川もまた、児玉と同じ道を歩むのだろうか。


 昭和51年4月23日、東京・一番町にあった警視総監公舎に1人の男が住み着き、当時の総監、土田国保(72)夫妻と5カ月近い奇妙な同居を始めた。

 「ロッキード事件の資料提供に関する日米取り決め」により引き渡された米連邦証券取引委員会(SEC)や米連邦捜査局(FBI)などの資料を警視庁独自に翻訳するため、刑事部付兼防犯部付に異動した兼元俊徳(49)=現警察大学校国際捜査研修所長=である。

 2カ月前に神奈川県警捜査二課長になったばかりなのに、突然の異動。庁舎に姿も見せず、おかしいと直感した記者たちが、兼元の“手配写真”を持ちながらチェックして回っているため、公舎の2階に缶詰め状態になっての作業を強いられたのだ。

 あるときなどは、土田の留守に記者がやってきて「ホテルにもいない。かくなる上はこの公舎にガサ入れ(捜索)をしなきゃ」と迫った。夫人が「再婚したばかりで、2階だけは見ないでください」と言ったためやっと引き上げたという。土田は警視庁警務部長時代の4年半前、自宅に届いた小包爆弾が爆発し、先妻を失っていた。

 記者の前で名前が出ることを恐れ、兼元を「ロータス」というあだ名で呼んだ。ロータスは英語でハス。兼元はレンコンの煮付けが大好物だった。ところが、土田によると兼元は「体力があり心臓が強い。英語がペラペラという、絶好の条件ながら大食いで1日5キロを走らないとダメ」。かくして公舎に隣接した麹町警察署長公舎から、ヤッケのフードを頭からすっぽりかぶったジョガーが、夜な夜な出没するようになった。

 兼元は振り返る。「捜査の流れの中でどういう価値を持つのかわからない。役に立つものを探せるのかも未知数。五里霧中の作業に加え翻訳家ではなく捜査員として期待されていたから辛かった。腹をくくるまでには時間がかかった」

 2月24日に児玉誉士夫邸などを家宅捜索して以来、東京地検と警視庁は東京国税局を含めて3庁合同で捜査を進めていた。しかし、検察は米国から得たこの資料をなかなか警視庁に渡そうとはしなかった。

 4月2日には、高橋正八最高検次長検事が山本鎮彦警察庁次長に対し「資料の捜査は、いっさい検察が責任を持って当たります」と伝えていた。山本からそのことを聞いた土田は5日に旧知の東京地検検事正、高瀬礼二(78)に直談判する。

 「資料を全面的に見せてほしい。警視庁は第一次捜査機関であり捜査の徹底を期したい」

 しかし、高瀬は極めて冷静だった。「米国側との協定成立のいきさつからして、あまり期待できませんよ」

 この後、浅沼清太郎警察庁長官が布施健検事総長と高橋に会い、資料引き渡しを“お願い”し、ようやく引き渡しが始まったのが4月23日。午後6時、1回目の資料が警視庁に到着した。

 資料は全部で3千枚。その後数回に分けて引き渡されたが、地検次席検事の豊島英次郎(69)自身がコピーした。地検ナンバー2が資料をコピーするなどむろん異例中の異例だった。

 しかも、警視庁からそれを受け取りに出向くのは中平和水刑事部長の役目になった。総監室の外は、資料が来たことをかぎ付けた警視庁詰め記者たちによって張られていた。そこで中平は、記者の前で新聞紙の入ったふろしき包みを携え、鑑識課の金庫に恭しくしまった。

 ホンモノの資料は総監公舎の金庫にしまわれ、土田はその部屋で寝た。剣道七段の土田の布団の中から木剣が見えた。

 しかし、3千枚の資料の中には『ピーシズ』『ピーナツ』という領収書のコピーはあったものの、契約書がほとんどで、供述を引き出すための具体的な物証はなかった。そして、なぜか欠番があった。

 土田は「(田中角栄元首相の影響を受けている人物が少なからずいる)警察の旧内務官僚たちが、リークすると誤解していたようだ」という。

 6月19日の打ち合わせで、土田は高瀬から「大久保利春・丸紅元専務(故人)を突破口にし、全日空幹部と児玉の秘書は共同で逮捕」という方針を提案される。土田は「警視庁が逮捕した経理部長と営業本部長兼国際部長の証言から若狭全日空社長の国会での偽証が裏付けられた」と自負する。

 しかし、検察首脳と警視庁上層部の関係は良かったものの、「検察主導過ぎる」という警察の現場の不満はあった。

 例えば警視庁は6月24日、逮捕前提で別の丸紅元専務の任意取り調べを行っているが、検察はその後独自に調べを行い7月2日に逮捕した。「警視庁の調べの中身が一部報道されたことを、検察は面白くない-と感じたのだろう。元運輸次官にしても結局、検察の証拠が採用になり、検察が逮捕した」(土田)

 そして7月27日の朝。土田が東京西部にある青梅警察署での剣道の出げいこに向かったころ、東京地検の検事たちは田中邸のブザーを鳴らした。

 土田が「田中逮捕」を知ったのは午前8時10分。地検では逮捕状執行のための取り調べが既に始まっていた。

 このころ、警視庁管内の各署を回っていた土田が言う。

 「午前7時33分に署に着いた。道中、車に連絡したらしいが、山間部で電波が届かなかったようだ。7月20日ごろ、検察事務官が榎本敏夫邸を張っているという情報があり、近いとは知っていたが、いつかは知らされていなかった。24日に高瀬さんに会っているが、オクビにも出されなかった」


 昭和51年6月22日、丸紅元専務の大久保利春(故人)は全日空幹部3人とともに、ロッキード事件初の逮捕者となった。検察関係者によれば、「心に曇りを感じるカネ」と述べ、「丸紅ルート」の中で最も早くしゃべり出したのも、実は大久保だった。大久保の調書をとったのは東京地検の検事、村田恒(61)=現在高松高検検事長=だった。

 「大久保は僕の調べた数万人の中で最高の人格者だった。最初は随分反発もしたが、1回言ったことを絶対に翻さなかった。取り調べにも背筋をいつもピンとして。さすがは元勲の孫。やったことは別として、あんな人間になりたい。私自身で二十数枚、調書を書いた。最初は、外為法だけでいくつもりだったが、趣旨はともかく、カネの引き渡し(贈賄)のアウトラインまで出た。主任検事の吉永(祐介現検事総長)さんもびっくりして、秘密保持のため、最高検にも出せなかった」

 大久保は大久保利通と高橋是清を祖父にもち、もと勤めていた会社の倒産や合併で降格を何回か味わい、丸紅専務になったところで事件に巻き込まれた。

 この大久保の証言がなければ、田中角栄元首相をあそこまで追い込めなかった、という点では検察、弁護側とも見方は一致している。

 しかし、大久保のような例は珍しかった。日本とアメリカにまたがり、多くの関係者が口を閉ざすこの難事件を解明するため、検察と裁判所はいくつかの“異例”に挑戦した。

 コーチャン・元ロッキード社副会長ら贈賄側米国人に対する嘱託尋問自体があまり前例がないなら、その調書を確保するため、彼らを起訴しないことを確約した検事総長らによる「不起訴宣明」も異例だった。さらに、その免責が守られるに違いないと“保証”した「最高裁宣明」もそうである。

 「最高裁宣明」は「最高裁長官の免責保証が得られるまで調書は引き渡せない」という米国の司法当局の求めに応じる形で、7月24日に発表された。最終的に決めたのは、人事などを決める場でもある裁判官会議。当時の長官、藤林益三(87)ら15人の裁判官中13人が出席、「全裁判官が一致して」(宣明書)決めたという。

 だが18年余りがたった今、裁判官会議に加わった判事たちは、必ずしも「宣明」を出したことに納得しているわけではない。

 その中の1人は後に「宣明はやり過ぎだった。やるべきじゃなかった。無理しなくても良かった」と、ある官庁の元首脳に話している。

 また、別の判事はこう証言する。「早く出さないと、捜査が止まってかわいそうだと思った。経過説明した長官は積極的で『やっていいかな』というはかり方。大阪高裁長官を東京に異動させる人事と同じで、長官一任という雰囲気になった。『異議のある方は』とは聞かれなかったが、(法律判断ではなく)司法行政だからこれで済むのだろう。見方によっては検察を助けたことになるが、それがいけないなら裁判で争えばいいと思った」。

 さらに別の判事は「あっさり決まったとはいっても、得心ある議論が行われ、初めから『出そう』という方向ではなかった。長官に結論を一任した覚えはない」と少し違った証言をする。

 しかし、この判事も「刑事訴訟法の解釈論では言い分も出てくるだろうが、日本の検察実務では、起訴には検事総長の署名・押印が必要だから(検事総長宣明があれば)事実上、起訴はないと判断した」とするとともに、「結果的に検察側に有利になった」と断言する。長官だった藤林は「他のメンバーが言えばそれで良い」と語るが、平成元年1月の日本経済新聞紙上では、日記をもとに『外国人だとはいえ犯罪の容疑者を見逃す保証をするのだから、さぞ議論があったろう、と想像するかも知れないが、さほど意見は出なかったように思う』と述べ、さほどの意見も出ずに決まったことを明言している。

 当時のマスコミ報道は過熱、公判前から関係者をクロと断定する論調が多かった。田中に懲役五年の求刑が行われたときなど、労組員ら2万3千人は「角栄御用」と書いたちょうちんで田中邸付近をデモするなどヒステリー現象も起きていた。

 そうした“世直しムード”が裁判に影響したかはどうかは、もちろんわからない。だが、当時の捜査・公判に濃厚にかかわった検察首脳経験者はこんな批判をする。

 「検察は、行政機関だから行政に無関心ではいられない。だから、起訴すると著しく国益を損なう場合などは、起訴しない起訴便宜主義をとる。だが、裁判所は司法機関で、こうした巷の情勢に左右されてはいけない。残念ながら、マスコミや国民の熱狂的支持の下では、裁判所は虚心坦懐(たんかい)というわけにはいかなかった」

 ほとんどすべての局面で“敗北”を喫した元全日空会長、若狭得治(80)は嘱託尋問について、「検察側にだけ尋問が許され、弁護側には反対尋問が許されなかったのはアンフェアだ」と今も割り切れない気持ちでいる。調書の証拠採用が最大の争点になっている「丸紅ルート」の最高裁審理について、「最高裁がどういう判断下すか見ています」という。

 同じく丸紅元専務の伊藤宏(67)の場合は、あきらめとも皮肉ともつかない心境でこう語る。

 「裁判官も人間。熱くなっている世論・マスコミに動かされて、先に結論があったことはしようがない」


 全日空社長だった若狭得治(80)=現名誉会長=は昭和51年7月8日、東京地検に逮捕された。その若狭が今「生涯であんな悲しいことはなかった」と言う。逮捕されたこと自体ではない。広島にいた娘が出産間近だったからだ。

 「本来なら実家に帰って産むのだが、私が目の前で逮捕されてはショックで流産すると思い、『来ないよう』伝えた。ところが逮捕後、出産した娘が『孫の名前を付けて』と、弁護士を通して刑務所(東京拘置所)に伝えに来た。刑務所で孫の名前を付けるわけにはいかないと、知人に付けてもらった」

 若狭の直系の部下で専務だった沢雄次(76)=現全日空エンタプライズ会長=の娘は、沢の逮捕一カ月前に挙式した。「逮捕された後、娘の結婚式をしておいてよかったと思ったが、小管(東京拘置所)では、娘の新婚生活より会社の方が気になった」

 全日空では若狭、沢ら計6人が逮捕・起訴されたが、沢によると公判の最中でも若狭への信頼は変わらず、和気あいあいとしていたという。

 「この人にまかせておけば、会社は大丈夫だと思ったからだ。私には『ホテル部門をみんなまかす』と言ってくれるなど、裁判関係者全員をしかるべきポジションに就け救ってくれた」。事件については「外国から入った金を、日銀に届けなかったということであまり関係ない。しかし全日空の海外進出が数年遅れ迷惑をかけた」と言う。

 公判で、丸紅の政界工作の司令官とされてきた専務の伊藤宏(67)は現在、丸紅エネルギーの顧問を勤める。

 「経営トップ(になること)を考えないこともなかった。順風満帆だった人生を逆さまにした事件だったが、今はこだわってはいない。執着してみたところで、これからの生きざまは左右されないから。それより、一人息子がときたま連れて来る初孫の顔を見るのが楽しみ」

 事件についてはこう語る。「檜山(広・丸紅元社長)は『詳しい内容にはタッチするな』と下命した。丸紅は一本のレールの上で、ロッキード社から言われるままに実行した中継駅。自分たちの意思ではなかった。当時の政治資金規正法に上限がなく、外国法人からも資金を受け付けていたのだから、なぜ、堂々と銀行に振り込まなかったのか、といわれると身を切られる思いだ」。

 丸紅でエリートの道をひた走っていた元秘書課長の副島勲(62)=後に取締役、現丸紅石油基地社長=は、丸紅フランス社長として着任半年後の51年7月17日から50日間、検察から取り調べを受けた。証人として立った公判では灰色高官たちに直接現金を届けたとされた。現金を配ったのは欧州に栄転する直前。

 「転勤があと1-2カ月早かったら(事件に巻き込まれなかった)-と思うけど、(将来は)間違いなく社長になった伊藤さんも逮捕され、人生何が待ち受けているかわからないと悟ることができた」。

 ホテルの一室で「浴衣のヒモで首をつるか、バスタブの中で手首を切って死ねば楽だろうな-と自殺も考えた」という。

 「(灰色高官)に3千万円が渡ったのは事実。でも、わいろではなく政治資金。当時、一般的に飛行機を買うことと日ごろの政治献金の習慣は同一線上にあり、問題にならないと思った」

 副島らによれば、85歳になる桧山は都内の自宅で目立たぬように、ひっそり暮らしている。心臓病の持病に加え、腰をいためているという。好きな旅行も行かず、ゴルフも初公判以来「いい気なものといわれるから」とやっていない。

 田中角栄元首相の秘書官、榎本敏夫(68)を調べた東京地検検事、村田恒(61)=現高松高検検事長=は、榎本に対し「善人で小市民的」というイメージを持っていた。

 その榎本は、5億円の段ボール箱授受の現場にはいなかったとする『榎本アリバイ』の中でも度々登場する東京・上中里の自宅に今も住む。表札はなく、『榎本敏夫』と書かれた親指大ぐらいの紙が、ポストの投函口のヒサシの中に、隠れるようにセロテープで張ってある。

 社会人となっている長男(26)、二男(23)と母親(87)との4人家族。三男(21)が米国留学していることを除けば、事件発覚当時と変わらない。田中家との金銭関係はもはやない。昭和56年12月に高血圧性脳症で倒れて、手足の自由を奪われた。「本当はもっとべらんめえなのに、言葉が思うように出なくて歯がゆい。階段を上がるときはつえがあっても人の厄介にならないといけないから、通院や美術館巡り以外、外出はほとんどない。夕食の前に日本酒をお湯で割ってコップに一杯飲む。まずいけど、飲まないと食事がうまくないような気がして」

 テレビのチャンネルは、政治番組で止まる。

 「たかだか7-8カ月の野党生活に嫌気がさして社会党と連立するなんて、自民党の今までからすると信じられない」

 “ハチの一刺し”で榎本に不利な証言をしたかつての妻、三恵子とは「保釈の2-3日後に別居になった。一番辛いときだったが、これも人生と思ってあきらめる他なかった。私が悪かったのだが、ちょうど子供たちが小さくて、母に養育で迷惑をかけ、伜(せがれ)としては大変親不孝な話だった」としんみりした。(文中敬称略)