小林信也(作家、スポーツライター)

 「私が生まれたばっかりに、父の二度目の完全試合がダメになってしまった。私は生まれたときから親不孝者です」

 初めて会った日、その女性は真面目な顔で言った。

 「完全試合を二度やった投手はメジャーリーグにもいないそうです。もし父が二度達成していたら、もう少し世間に知られた存在になって、野球の殿堂にも入れてもらえたのではないでしょうか」

 日本のプロ野球史上二人目の完全試合投手、と聞いてすぐ名前が浮かぶ野球ファンがどれほどいるだろう? 史上初の完全試合は、巨人の藤本英雄だと、多くのファンが知っている。だが、二人目となると、知る人は少ない。女性はその人、武智文雄(近鉄パールス)の長女、美保さんだ。

 2013年7月、武智文雄は病気で亡くなった。遺品を整理していると、ボールやユニホームが出て来た。それをどうしたものか、どれほど貴重なのものか、誰かにその相談をしたいと紹介されて筆者が会った。その時の自己紹介が冒頭の言葉だ。

 武智文雄は、26勝を挙げて最多勝投手に輝いた翌年の1955年(昭和30年)6月19日、大映スターズとの試合で完全試合を達成した。史上二人目、パ・リーグでは初となる快挙だった。そしてその年の8月30日にも、同じ大映戦で9回1死まで完全に抑えていた。

 「文(ふみ)さん、またやるぞ!」、球場は期待と緊張に包まれ、「同じ年に二度もやられてたまるか!」、大映ベンチには悲壮な空気が流れていた。

 その時、ひとつの難問が近鉄ベンチに投げかけられていた、と美保さんは言う。

 「ちょうどその日、私が生まれたのです。ベンチにその知らせが届いて、監督、コーチはそれを父に伝えるかどうか、迷ったそうです。9回1死になって、ベンチはタイムを取り、マウンドにいる父に私の誕生を伝えた……」
現役当時の武智文雄投手
現役当時の武智文雄投手
 女の子が生まれたぞ、と。その途端に、代打で出て来た新人の八田正にセンター前に打たれた。鈍い当たり、テキサス・ヒットだった。これで世界でも初、「同じ年に二度の完全試合」は断たれた。だから、「生まれたときから親不孝」と美保さんが自嘲するのだ。その逸話を、美保さんはまだ幼いころ、自宅に遊びに来た近鉄の選手から聞かされた。しかも、誰かがそのことを書いた記事も見せられたという。だから、自分が生まれた8月30日は誕生日であっても、常に苦い思いとともにある、美保さんにとっては複雑な気持ちにかられる日だという。

 さらに、武智文雄(結婚して婿養子になる前は田中文雄だった)が名門・岐阜商に進学、野球部での活躍を期待されながら夏の甲子園大会が中止になったこともあり途中で退部。自ら予科練を志願し、野球をあきらめた人だと知らされた。

 運命の糸に引かれるように、私は武智文雄の人生をたどり始めた。