1995年1月17日午前5時46分52秒―。マグニチュード7.3の大地震が、兵庫県神戸市をはじめとした関西地方を襲った。阪神・淡路大震災である。大阪と神戸を繋ぐ阪神高速道路は波打つように倒壊し、住宅地や商店街など各地で黒煙があがった。火災によって被害はさらに膨れ上がった。過密な住宅地、商業集積地を繋ぐ鉄道や高速道路は自然のエネルギーによって脆くも破壊され、都市型災害の恐ろしさをまざまざと見せつけた。
1995/ 01/ 17
「阪神淡路大震災」 倒壊した阪神高速神戸線=神戸市東灘区(本社ヘリから)1995/ 01/ 17 
 ぺしゃんこになった自宅の下敷きになって命を落とした人と、二階の自室の窓からかろうじて抜け出せた人。パジャマのまま頭を抱えて大通りを目指して脱出した人、逃げ遅れて燃え上がった炎に包まれてしまった人。生死を分けた「境界線」はあまりに残酷だった。

 さらに、家や家族を失い、生き延びた人たちを待ち受けていたのは、過酷な冬の避難生活だった。公園の仮設テント、学校の体育館。水も食糧もない、暖房もテレビもない。ようやく届いた支援物資が冷めたおにぎりやコッペパンで、被災者の怒りの声は至るところで沸き起こった。

 内閣府のHPによると、震災による負傷者は約4万3800人にもぼり、死者(関連死含む)は6434人にまでおよんだ。しかし、この数字以上に現場には、大きく深い悲しみや怒りや絶望に満ちた人々の「心」が横たわっていた。

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阪神大震災 夜まで燃え続ける神戸市長田区市街 1995/ 01/ 17 

 価値観の転換―。阪神・淡路大震災がこの国に突きつけたものは、あまりに大きく、多岐にわたる。しかしそのなかでも、価値観の転換が何よりも大きいものではなかったか。高度経済成長、バブル経済……。戦後の焼け野原からライジング・サンと呼ばれる経済大国にのし上がったのもつかの間、バブル崩壊で多くの人々が自信を喪失していた。景気低迷の波は、終身雇用の制度崩壊として押し寄せ、誰もが「仕事」「家庭」「人生」などについて考え、思いあぐねていた。

 そんななかの地震で自然発生的に生まれたのが、災害ボランティアだった。「災害ボランティア元年」と称されることで分かるとおり、数多くのボランティアが全国から集まった。これまで、募金をして助けようという形から、一歩踏み込んで自分も力になりたい、できることから始めるということが出てきた。会社が休みの土日を利用して出かける人も出てきた。共助の精神が新たな形で芽吹いたといっていいのではないか。

 携帯電話の普及が一気に広まった。有線の固定電話は、ライフラインが寸断されると復旧まで時間がかかり、安否確認がままならない状況が続いた。それまで、一部の富裕層の持ち物と思われていたものが、誰もがいつ、どこでも連絡を取り合えるという利便性に着目し、瞬く間に広まったのである。いわば、「携帯元年」と呼んでもいいだろう。

 もう一つ、忘れてはならない事件がある。この年の3月20日午前8時ごろ、東京で発生した地下鉄サリン事件のことだ。新興宗教団体のオウム真理教(現・アレフ)が、営団地下鉄(現・東京メトロ)の丸ノ内線、日比谷線、千代田線の3路線の車両内で、化学兵器として使用される神経ガスサリンを散布し、乗客や駅員13人が死亡した事件である。負傷者数は約6300人にのぼった。

 首都圏の地下鉄を舞台に実行されたテロ事件として世界中の注目を集めた。また、一般市民に対し、化学兵器が使用されたことでも衝撃的だったとされる。しかし、それでもまだ日本では無差別テロ事件という認識は希薄だった。おかしな思想にとらわれた新興宗教団体による犯罪という側面でしか、捉えなかったのではないか。
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第六サティアンを「殺人予備」の容疑に切り替えて捜索が新たに行なわれた=上九一色村 1995/ 03/ 31 
 この事件を契機に、メディアは震災報道からオウム報道一色に様変わりした。メディアも事件の詳細から、オウムの教祖だった麻原彰晃(本名・松本智津夫)のことや、オウムが起こした坂本堤弁護士一家殺害事件、松本サリン事件などを掘り下げる内容になっていった。

 個人的なことで恐縮だが、当時業界紙記者だった私は建設省(現・国交省)担当で、妻は団体職員として神谷町に勤務していた。たまたま2人ともこの日は休暇を取っていたため事件に巻き込まれなかったが、もし普段どおり勤務していたらどのような事態に遭遇していたか分からない。そんな恐怖感に包まれたことを、今も鮮烈に覚えている。
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逮捕され、拘置請求のため東京地裁に向かうオウム真理教の麻原彰晃容疑者=警視庁1995/ 05/ 18 

 さらに、地下鉄サリン事件の1カ月後、私は縁あって元読売新聞大阪社会部長の黒田清氏(故人)の黒田ジャーナルに転職し、約10カ月におよぶ震災取材を経験した。当初、「いまごろ東京から来て何が分かんねん」と面罵されることもあったが、被災者と共に歩き、共に涙しながら被災者の心情の一端を報じられたと思っている。

 戦後50年に、この大災害と大事件が発生したことは、この国の大きな転換期だったと、今振り返ってみて改めて感じている。戦後生まれ、平和な時代に育った者として、この2つの出来事は初めて目の当たりにした“戦争”だったからだ。このような事態に遭遇した際、国はどのように動くのか。もちろん、その都度、政府は法整備を進めていった。

 たとえば、5年間の時限立法として阪神・淡路大震災復興の基本方針及び組織に関する法律をはじめ、被災者生活再建支援改正法など、さまざまな法律ができ、復興支援に向け動いた。

 また、破壊活動防止法以外に、オウム新法(団体規制法、正式には「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律」)が出来たり、サリンの所持や製造を禁止するサリン防止法などが成立した。

 いつ大災害に見舞われるか、どこで無差別テロ事件が起きるか、つまり身近に危険が潜んでいることがはっきりしたのが、95年だった。平和で豊かな国ではない現実を突きつけられた年だったといっていいだろう。

 しかし、戦後70年を迎えるいま、防災立国をめざすでもなく、テロ防止が万全といえる状態ではない。その一方で、特定秘密保護法は一般市民やメディアまでも巻き込むことも可能な危うさを孕み、集団的自衛権の憲法解釈容認は時の政権によって大きく舵取りが変わる危険性を持っている。あの20年前のこの国の姿を思い出すと、違う国づくりの必要性が改めて浮かび上がってくるように思えてならない。