そういう境遇の中でずっと、「でも私は地域にいたいんです」ということで生きてきました。でもやはり障害者が身近にいると面倒くさいし、コミュニケーションも取れないし、どうしたらよいかわからない。いないほうがよいと思っている人が実はたくさんいるんですね。

 あの事件を受けて、可哀想だね、価値のない命なんてないのに、なんであんなことをするんだろうねって、みんな口々に言うけれども、じゃあ「なんで重度障害者の命に価値があると思うんですか」と逆に聞くと、ちゃんと答えられる人はいないんですよ。
津久井やまゆり園前に設置された献花台=2016年12月8日、相模原市(古厩正樹撮影)
津久井やまゆり園前に設置された献花台=2016年12月8日、相模原市(古厩正樹撮影)
 なぜその命が大事なのか。命が大事だということは、学校の道徳とかで習うけれども、なぜ大事なのかは習わないんですね。そんなものは一緒に生きていく中で感じとることだけれども、共に生きる環境がないから感じ取れないし、誰も教えてくれない。その中で起きた事件なので、背景には複雑な環境があるのだろうけど、起こるべくして起きた事件なのかなと私は思っています。

 あの事件が起きたあと何が変わったかというと、一番思ったのは何も変わっていないということかなと思います。変わったことと言えば、重度障害者という人達が集まる施設があって、そこに障害者がたくさんいるんだということが世の中にちょっと広く知れたということですね。

 でも障害者の命の価値を考える機会にはなっていないし、植松容疑者が本当に狂った人で、あんな危ない人を野放しにしておけないから、精神科病院や刑務所に早く入れてほしいと思う人が多いんでしょうね。危ない人、よくわからない怖い人をどこかに隔離しておいてほしいというのは、重度障害者の人は接し方もわからないし、ケアも大変なので施設に入れておいてほしい、という考え方と全く一緒なんです。

 そういう負のループというか、人手もお金もかかる重度障害者という人がいて、その人達の間で起きた事件というように、ちょっとどこか他人事な受け止め方が多いのではないでしょうか。国民一人ひとりが自分にとってどういう影響があるかと、自分に結びつけて考えていけていないんじゃないかなと思います。

 だから、私の周りにいる人でも、あの事件についてどう思うかとか、議論が盛り上がることがあまりないんですよ。私の生活は変わらない、皆さんの生活も変わらない。ごく一部の特殊な場所で起きた特殊な事件なんだと片付けられてしまっているという、そういう怖さが私の中にはずっとあります。