サイコパスは生まれつきか

『Voice』 2017年5月号

読了まで16分

小浜逸郎(批評家)

 『言ってはいけない』(橘玲著・新潮新書)や『サイコパス』(中野信子著・文春新書)がよく売れているそうです。背景には、相模原障害者施設殺傷事件や小金井女子大生傷害事件の加害者がサイコパスではないかとの世間の判断があると思われます。森友学園問題の渦中の人もそういう悪口を叩かれました。一度ある言葉が流行ると、独り歩きして濫用されます。

 「サイコパス」とは精神医学用語です。もともとは「精神病質」と訳されていましたが、その適用対象が時代とともに変遷し、現在では「反社会性人格障害」と訳されています。
殺傷事件があった津久井やまゆり園前に設けられている献花台=2016年12月、神奈川・相模原市(古厩正樹撮影)
 犯罪心理学者のロバート・D・ヘア氏はサイコパスを以下のように特徴付けています。

 ①良心が異常に欠如している ②他者に冷淡で共感しない ③慢性的に平然と噓をつく ④行動に対する責任がまったく取れない ⑤罪悪感が皆無 ⑥自尊心が過大で自己中心的 ⑦口が達者で表面は魅力的

 こういう傾向をもった人は昔から一定割合でいましたし、また他の変人、異常性格者、精神病者と同じように程度問題で、グラデーションを成しています。サイコパスのすべてが犯罪者ではないし、逆に犯罪者のすべてがサイコパスであるわけでもありません。

 ところで、冒頭に挙げた2著に共通しているのは、両者とも、多くの外国の研究を紹介しながら、このサイコパスが遺伝性によるものではないかという考えを提出している点です。つまり成育環境の影響によるよりも、生まれつき普通の人とは違った種族なのだという印象を読者に与える効果を醸し出しているのですね。もっとも、中野氏の著書のほうは、脳科学の専門家らしく、かなり慎重な記述を取っています。これに対して橘氏の著書のほうは、かなりその面を強調していて、その点、ある意味で刺激的であるともいえます。

 ここでは、両著の批評を試みようというのではありません。

 ちなみに一言だけ感想を申し上げておくと、両著とも英米系で発達した進化心理学なる学問にかなり信頼を置いているようですが、私自身は、この学問の方法原理をあまり信用していません。それには2つの理由があります。

 1つは、自然界に見られる「種の形態的変異」の多様性を進化によって説明したダーウィンのオリジナルを、そのまま人類社会における「個体(個人)の心」の変異に適用することに無理を感じるからです。「人類社会」という、それ自体自然と関わりつつ変異を重ねていく1つの「種」を、自然環境と同一視しているのです。

 もう1つは、進化心理学は、自分(この場合も「種」全体ではなく特定個体群です)の子孫の維持繁栄のための「戦略」という言葉を好んで用いますが、戦略というからには、初めからある目的を意識して特定の手段を用いる「主体」を想定しなくてはなりません(心理学なのですから)。ところが進化心理学は、その主体があたかも遺伝子それ自体であるかのような曖昧な擬人法を用います。それは「神のご意志」をDNAに置き換えただけのことです。DNA決定論と人間の自由意志とのあいだの矛盾という哲学的難問を飛び越したまま、生物学的進化と人間心理とを強引につなげているのです。だから私はこの学問は、疑似科学だと思っています。膨大な資料を収集して得られた統計的事実は現象として尊重しますが、説明原理には納得できないのです。

 閑話休題。
ラベリングに潜む倫理性からの免除

  この論考で考えてみたいのは、「サイコパス」のようなラベリングによって、私たちを分節すること、いわゆる普通人と生まれつきの異常人とを区別することが、私たちの社会的関心にとって何を意味するのかという点です。

 これは言い換えれば、倫理的なテーマです。ここで倫理とは、やや難しい言い方になりますが、ある行為や判断に関して、人生時間の長さや人間関係の広がりを視野に入れながら、その意味を考える精神のことです。この場合でいえば、「サイコパスは遺伝的に決定されているという説がある。それはこれこれの理由で当たっている(いない)」と表明しただけでは、物事を倫理的に見たことになりません。そのような捉え方を提出することの社会的な意味を考えることが重要なのです。サイコパスは遺伝現象だという判断が、どういう既成の理解や「正しさ」の観念を背景として投げ出され、それがどういう社会心理的効果を生むのか、それを見極めること――それが倫理的な営みというものです。

 たとえば「病気」という概念があります。私たちは普通、この概念を、個体の心身の健全さが何らかの生物的・心理的原因によって内部で損なわれることと理解して疑いをもちません。しかしそれだけでは不十分なのです。病気とは、そうした心身の損害によって日常生活上の倫理的つながりから「免除」されることです。病気とはもともと人間関係に関わる社会的な概念なのです。ある個体の内部の変容、腹痛がするとか迫害妄想に悩まされるとか、それだけを取り出して「病気」と名付けるのではありません。

 病気という概念は、周囲の人びとがその人の変容に対してどういう態度(モード)で振る舞うかという関わり方までを含んでいます。つまりその人から、義務や責任や普通に人と共に生きることまでも含めた倫理性を免除してやるという関わり方です。医師の診断書がないと会社が病気と認めてくれないなどということがよくありますね。周りに疎まれる振る舞いをやめない人のことを「あれは病気だから仕方がない」などといったりします。

 倫理性からの免除は同時に日常的な関係からの「追放」でもあります。ことにメンタルな面に関して「あいつは病気だ」という周囲の判断は、「あいつとは付き合わないようにしよう」とか「あいつには仕事をさせられない」という決断に容易につながります。要するに自分たちとその人とのあいだに明確な一線を引くことで、仲間外れにするわけですね。「病気」に限らず、一般に他者に対するすべてのカテゴライズ、ラベリングには、この「免除」と「追放」との両義性が絡んでいます。
過剰なPCに挑んだトランプ大統領

 ポリティカル・コレクトネス(PC)について考えてみましょう。PCとは、人権尊重や平等主義、反差別主義の立場から、こうしたカテゴライズやラベリングを印象付ける表現を禁止することです。PCは、カテゴライズやラベリングを嫌います。これらが、共同性からの「追放」の側面を多かれ少なかれもつからです。しかし過剰なPCは、硬直したイデオロギーとなって、人びとを息苦しくさせます。冒頭に掲げた2著、とくに『言ってはいけない』は、過剰なPCに対する挑戦の意図を込めています。

 米国は、民主党政権下で過剰なPCの傾向が顕著でした。多民族国家の秩序維持という難しい課題を前にして、実態としては相互異族視、排外主義、差別などが逓減していないにもかかわらず(だからこそ?)、建前の上でヒステリックなほどにPCを看板として立てています。「メリー・クリスマス」はキリスト教のお祭りの言葉で異教徒の差別につながるから言ってはいけないとか、「天にましますわれらの父よ」は父権主義の表れで女性差別だからダメだとか。

 日本に比べて欧米では、PC問題はかなり深刻なようです。自由、平等、人権などの理念を強固に打ち出してきた歴史を抱えているため、それらの建前と実態との乖離がますます露出してきたからです。欧米は移民・難民問題を抱えており、この問題が生み出す異民族、異教徒間の緊張関係が深まれば深まるほど、建前の欺瞞性が明らかになってきました。EUの見せかけの寛容さの下で、シャルリー・エブド事件、難民たちによる数々の暴動、ホームグロウン・テロ(国外の過激思想に共鳴した国内出身者が自国内で起こすテロ)、本国人たちによる逆襲、難民受け入れ停止国の出現、移民排斥・移民制限を訴える政党の勢力伸長など、もはや収拾がつかないありさまです。

 トランプ大統領が登場したことによって、PCの硬直性に風穴を開けようという雰囲気が新たに生まれました。空疎な理想主義を追わずに、現実をよく見て、本音で大いに語ろうではないかという雰囲気ですね。しかし彼のやり方、とくにアラブ7カ国(のち6カ国)からの移民・難民制限政策がやや急激であったため、それに対する感情的反動もものすごく、連邦地裁やいくつかの州の地裁で大統領令差し止めの仮処分がなされたほか、理念を前面に押し出す民主党陣営の反トランプ勢力も強く、トランプ氏は劣勢に立たされています。
(iStock)
 けれども難民受け入れ制限についてのトランプ氏の大統領令の中身をよく見ると、テロを防ぐという現実的な観点からは当然といってもよいもので、格別、差別主義とか排外主義とか呼べるものではありません。ちなみにこの点については、拙ブログをご参照ください。
刑法第39条は半ば形骸化している

  橘・中野両氏の本も、それほど強くタブーを破っているといった印象はありません。「サイコパスは遺伝が原因である可能性が濃厚だ。サイコパスが犯罪者の一定割合を占めることは明らかだ」という判断を、精しい統計資料を紹介しながら述べているだけです。現実をよく見て、あるべき社会政策を考えていこうと提言するにとどまっています。

 サイコパスという概念も、その言葉の発祥からして病気との関連性を失っているわけではありません。したがって、それとおぼしき人が凶悪犯罪の容疑者となったときには精神鑑定の対象となります。心神喪失や心神耗弱による減刑(刑法第39条)の要求は弁護側からよく出されますが、最近は、たとえ「サイコパス」などの鑑定がなされた場合でも、責任能力ありと判断される場合が多いようです。39条は半ば形骸化している感があります。

 これは、社会倫理の重点が、たんなる人権尊重の観点から、社会秩序防衛の観点に少しずつ移ってきたということなのでしょう。被害者遺族の心情や犯罪が引き起こす一般市民の不安感情を考えれば、ある意味当然といえます。日本の治安状態は、いまのところ決して悪化してはいないのですが、情報社会化の進展によって、国際テロの影響などもあり、国民の不安が増大しているのだと思います。

「サイコパスは、生まれつき決まっている蓋然性が高い」、さらに一歩深めて、「ある種の凶悪犯罪者はサイコパスであるから矯正困難だ」というような判断が力を得てくるのも、不安の増大の流れのなかにあるでしょう。

 社会学的に見れば、1人世帯の急激な増加なども関係していると考えられます。しかしこうした判断は、何もいまに始まったことではありません。19世紀後半から20世紀初頭に活躍した犯罪人類学の元祖といわれるチェーザレ・ロンブローゾは、「生来的犯罪人説」を唱えて1世を風靡しました。この時期が、第1次大戦前夜のヨーロッパで、社会不安がたいへん高まった時期であるのも、何やら暗示的です。

 あるそれらしき一群に名前を付けてカテゴライズし、それを「自分たち普通人」と区別(差別)しようという衝動が高まることの背景には、世界秩序の大きな流動化という要因が作用しているでしょう。それは個人に対して帰属意識(アイデンティティ)の不安定化を呼び起こします。名前の付いていない一群は、私たちをとても不安にします。ラベリングは私たちの集団心理を落ち着かせるために行なわれるのです。

 これを巧みに利用したのがナチスです。古くからのユダヤ人差別意識を下地に、優生学的な判断を結び付けたナチスのような動きが吹き荒れたのも、世界恐慌後の混乱期を背景としていました。優生学といえば忌まわしいナチスを思い浮かべるのが、自由主義社会の住人の習慣のようになっています。しかしじつは私たちは、優生学的な判断に近いことを薄められたかたちで日々行なっているのです。私たちは、命は平等に尊いとは決して考えていません。たとえば大勢の人が危難に遭ったとき、誰を優先的に救うべきかという判断において、老人よりも子どもを、縁の遠い人よりも身近な親しい人を、大した取り柄のない人よりも重要人物を先に生かそうと考えるでしょう。英雄に憧れるのも能力の劣った人を軽視するのも「嫌な奴」を排斥するのも出生前診断で障害児の出産を避けるのも同じ感覚です。
(iStock)
 優生学的な考え方は、私たちが無意識に取っている、そういうごく当たり前な序列化の感覚を、強大な権力が民族や人種というわかりやすい集団的指標を拠り所に、世界の不安定に乗じて巧みに組織化したところに成り立ちます。優生学的発想は私たちのなかにもともとあり、逃れることはできないということを深く自覚する必要があります。

 だから「サイコパスは遺伝的に決まっており、ある種の犯罪者はこれに属する」という捉え方を一概に斥けるわけにはいきません。こうした判断が、科学的真実として正しいか間違っているかが問題ではないのです。大事なのは、そういう見方をしなくてはならない局面がある、ということなのです。たとえば小学生の首を切り落として校門の前に置いた「少年A」や、同級生を絞め殺して遺体の頭や手首を切断した佐世保の女子高校生などを「理解」しようとするときには、こういう判断に立たざるをえません。
決定論に頼ろうとする態度は不安の表れ

  また、ある異常が先天的なものであるとか、これは「病気」であるとかラベリングされたときに、その当人がかえって安心して落ち着くという不思議な面を人間はもっています。それは、自分の努力とか責任の問題ではないという告知によって、アイデンティティ不安から逃れられるからです。諦めれば腰が据わって、生きる方向が見えてくるのですね。

 だから、ある種の決め付けは、局面次第で仕方がないこともあれば、よい効果を生むこともあります。要は、決定論に陥らず、人間という生物の可塑性(外部からの刺激に対応して変化適応すること)を担保しておくことが大切なのです。しかし可塑性を担保しておくといっても、一部の人が好んで取りたがるような、人間の生まれつきの差異を極小に見積もろうとする態度にも全面的に賛成するわけにはいきません。この種の人たちは、遺伝決定論に対抗して環境決定論を持ち出します。この子の失調(非行、学力不振、暴力的傾向その他)は幼いときにこれこれの育てられ方をしたからだ、といったように。遺伝決定論も環境決定論も、科学によって決着のつく議論ではなく、初めに結論ありきの一種のイデオロギーなのです。
(iStock)
 遺伝か環境かというのは、決着のつかない永遠の問いですが、そもそもこの二者択一的な問いの立て方がおかしい。それはちょうど、グラスに入っている水の形を決めているのは、水の粒子の集まりか、それともグラスかと問うのに似ています。遺伝的形質は特定の環境を通してのみ発現します。ですから両方だと答える以外ありません。もともと質の違った2つの概念を目の前に並べてどちらかを選べという論理に無理があるのです。

 人間の性格や能力や行動の傾向について、遺伝的要因が優勢か環境的要因が優勢かをいうことはできるでしょう。けれども決定論に頼ろうとする態度は、それ自体が、その人の不安を表しています。人間はいずれ不安から逃れるすべはないので、大事なことは、決定論に陥らないように両極端の均衡点に立つ不安に耐え続けることです。それがよい倫理的態度なのです。

こはま・いつお 批評家。1947年、横浜市生まれ。横浜国立大学工学部卒業。 2001年より連続講座「人間学アカデミー」を主宰。家族論、教育論、思想、哲学など幅広く批評活動を展開。現在、批評家。国士舘大学客員教授。著書に、『日本の七大思想家』(幻冬舎新書)、『デタラメが世界を動かしている』『13人の誤解された思想家』(ともにPHP研究所)など多数。

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