橘・中野両氏の本も、それほど強くタブーを破っているといった印象はありません。「サイコパスは遺伝が原因である可能性が濃厚だ。サイコパスが犯罪者の一定割合を占めることは明らかだ」という判断を、精しい統計資料を紹介しながら述べているだけです。現実をよく見て、あるべき社会政策を考えていこうと提言するにとどまっています。

 サイコパスという概念も、その言葉の発祥からして病気との関連性を失っているわけではありません。したがって、それとおぼしき人が凶悪犯罪の容疑者となったときには精神鑑定の対象となります。心神喪失や心神耗弱による減刑(刑法第39条)の要求は弁護側からよく出されますが、最近は、たとえ「サイコパス」などの鑑定がなされた場合でも、責任能力ありと判断される場合が多いようです。39条は半ば形骸化している感があります。

 これは、社会倫理の重点が、たんなる人権尊重の観点から、社会秩序防衛の観点に少しずつ移ってきたということなのでしょう。被害者遺族の心情や犯罪が引き起こす一般市民の不安感情を考えれば、ある意味当然といえます。日本の治安状態は、いまのところ決して悪化してはいないのですが、情報社会化の進展によって、国際テロの影響などもあり、国民の不安が増大しているのだと思います。

「サイコパスは、生まれつき決まっている蓋然性が高い」、さらに一歩深めて、「ある種の凶悪犯罪者はサイコパスであるから矯正困難だ」というような判断が力を得てくるのも、不安の増大の流れのなかにあるでしょう。

 社会学的に見れば、1人世帯の急激な増加なども関係していると考えられます。しかしこうした判断は、何もいまに始まったことではありません。19世紀後半から20世紀初頭に活躍した犯罪人類学の元祖といわれるチェーザレ・ロンブローゾは、「生来的犯罪人説」を唱えて1世を風靡しました。この時期が、第1次大戦前夜のヨーロッパで、社会不安がたいへん高まった時期であるのも、何やら暗示的です。

 あるそれらしき一群に名前を付けてカテゴライズし、それを「自分たち普通人」と区別(差別)しようという衝動が高まることの背景には、世界秩序の大きな流動化という要因が作用しているでしょう。それは個人に対して帰属意識(アイデンティティ)の不安定化を呼び起こします。名前の付いていない一群は、私たちをとても不安にします。ラベリングは私たちの集団心理を落ち着かせるために行なわれるのです。

 これを巧みに利用したのがナチスです。古くからのユダヤ人差別意識を下地に、優生学的な判断を結び付けたナチスのような動きが吹き荒れたのも、世界恐慌後の混乱期を背景としていました。優生学といえば忌まわしいナチスを思い浮かべるのが、自由主義社会の住人の習慣のようになっています。しかしじつは私たちは、優生学的な判断に近いことを薄められたかたちで日々行なっているのです。私たちは、命は平等に尊いとは決して考えていません。たとえば大勢の人が危難に遭ったとき、誰を優先的に救うべきかという判断において、老人よりも子どもを、縁の遠い人よりも身近な親しい人を、大した取り柄のない人よりも重要人物を先に生かそうと考えるでしょう。英雄に憧れるのも能力の劣った人を軽視するのも「嫌な奴」を排斥するのも出生前診断で障害児の出産を避けるのも同じ感覚です。
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 優生学的な考え方は、私たちが無意識に取っている、そういうごく当たり前な序列化の感覚を、強大な権力が民族や人種というわかりやすい集団的指標を拠り所に、世界の不安定に乗じて巧みに組織化したところに成り立ちます。優生学的発想は私たちのなかにもともとあり、逃れることはできないということを深く自覚する必要があります。

 だから「サイコパスは遺伝的に決まっており、ある種の犯罪者はこれに属する」という捉え方を一概に斥けるわけにはいきません。こうした判断が、科学的真実として正しいか間違っているかが問題ではないのです。大事なのは、そういう見方をしなくてはならない局面がある、ということなのです。たとえば小学生の首を切り落として校門の前に置いた「少年A」や、同級生を絞め殺して遺体の頭や手首を切断した佐世保の女子高校生などを「理解」しようとするときには、こういう判断に立たざるをえません。