また、ある異常が先天的なものであるとか、これは「病気」であるとかラベリングされたときに、その当人がかえって安心して落ち着くという不思議な面を人間はもっています。それは、自分の努力とか責任の問題ではないという告知によって、アイデンティティ不安から逃れられるからです。諦めれば腰が据わって、生きる方向が見えてくるのですね。

 だから、ある種の決め付けは、局面次第で仕方がないこともあれば、よい効果を生むこともあります。要は、決定論に陥らず、人間という生物の可塑性(外部からの刺激に対応して変化適応すること)を担保しておくことが大切なのです。しかし可塑性を担保しておくといっても、一部の人が好んで取りたがるような、人間の生まれつきの差異を極小に見積もろうとする態度にも全面的に賛成するわけにはいきません。この種の人たちは、遺伝決定論に対抗して環境決定論を持ち出します。この子の失調(非行、学力不振、暴力的傾向その他)は幼いときにこれこれの育てられ方をしたからだ、といったように。遺伝決定論も環境決定論も、科学によって決着のつく議論ではなく、初めに結論ありきの一種のイデオロギーなのです。
(iStock)
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 遺伝か環境かというのは、決着のつかない永遠の問いですが、そもそもこの二者択一的な問いの立て方がおかしい。それはちょうど、グラスに入っている水の形を決めているのは、水の粒子の集まりか、それともグラスかと問うのに似ています。遺伝的形質は特定の環境を通してのみ発現します。ですから両方だと答える以外ありません。もともと質の違った2つの概念を目の前に並べてどちらかを選べという論理に無理があるのです。

 人間の性格や能力や行動の傾向について、遺伝的要因が優勢か環境的要因が優勢かをいうことはできるでしょう。けれども決定論に頼ろうとする態度は、それ自体が、その人の不安を表しています。人間はいずれ不安から逃れるすべはないので、大事なことは、決定論に陥らないように両極端の均衡点に立つ不安に耐え続けることです。それがよい倫理的態度なのです。

こはま・いつお 批評家。1947年、横浜市生まれ。横浜国立大学工学部卒業。 2001年より連続講座「人間学アカデミー」を主宰。家族論、教育論、思想、哲学など幅広く批評活動を展開。現在、批評家。国士舘大学客員教授。著書に、『日本の七大思想家』(幻冬舎新書)、『デタラメが世界を動かしている』『13人の誤解された思想家』(ともにPHP研究所)など多数。