篠田博之(月刊『創』編集長)

 相模原障害者殺傷事件の植松聖被告との手紙のやりとりや接見の内容を掲載してきたが、今回は、彼自身が書いた手記も掲載した。彼はいまだにあの凄惨な事件を起こした自分の主張を誤っていたと認めておらず、むしろそれを多くの人に訴えたいと考えている。手記でも、その彼の考えが随所に語られており、新聞・テレビなどの大手マスコミでは到底掲載不可能な内容だ。しかし、あの忌まわしい事件を解明するためには、彼がどんな動機で事件を起こしたかを知らねばならない。

 そのために彼自身の言葉をなるべく原文のまま『創』で取り上げていこうと思う。植松被告の言葉は、多くの人にとって差別的で許せないものだろう。しかし、そうであっても彼の主張を記録し公開することに意味があると思う。現状においては他のマスコミが植松被告と接触できておらず、彼の言葉を伝え得るのが『創』だけという事情もある。そのことも敢えて掲載していこうと思う理由である。

 さて今回は、この間、植松被告と交わしてきた「死」または「死刑」についての議論を紹介しよう。これまで書いたように、彼は「意思疎通のとれない人間」を「心失者」と呼び、心失者は生きていても仕方ないと主張する。それが昨年、障害者を殺傷した動機でもあるのだが、同時に死刑を宣告された死刑囚についても、税金の無駄なので早期に執行すべきと主張する。このままであれば彼自身も死刑を宣告される可能性があるのだが、自分の死については、彼はいったいどう考えているのか。

 また植松被告は、障害者を殺傷したことは正しかったと言いながら、被害者の家族を悲しい目にあわせたことは本意ではなかったと謝罪している。ナチスの大量虐殺についても、障害者を虐殺したことは正しかったが、ユダヤ人虐殺は誤っていたという。しかし、そういう線引きは果たして可能なのか。大切だと認める命と価値がないという命をどう区別するのか。そんな疑問をこの間、植松被告にぶつけてきた。
(iStock)
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 まず最初に9月5日に植松被告に接見した時のやりとりの一部を紹介しよう。

 篠田 君は昨年、津久井やまゆり園に侵入した時、抵抗した職員に向かって、自分も命を賭けているんだと言ったそうだけど、この事件で死刑になる可能性があることは理解しているわけね。
 植松 はい。

 篠田 死刑になるかもしれないと覚悟してやったわけだ。
 植松 はい。

 篠田 君は2月に接見禁止が解除された直後にマスコミの取材を受けて、事件の被害者家族に謝罪をしたけれど、家族には申し訳ないと思っているわけね。
 植松 そうです。

 篠田 でも障害者への気持ちは今も変わらない。そこがわかりにくいのだけれど、どの命も大切だという考えはないの?
 植松 いや、そこは全然違うと思います。