彼との議論はいつも平行線だ。でも次に届いた手紙を読むと、「とても考えさせられました」と書いている。そうであればこそ、植松被告とは今後も議論していかなくてはならないと思う。
(iStock)
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 私が接見したその日に、彼はすぐに手紙を書いたようだ。9月5日付の手紙でこう書いてきた。

【9月5日付、植松聖被告の手紙】
 本日も遠くまで面会に足を運んで頂きまして、誠にありがとうございました。
 この度の面会で、篠田先生の言われました最後の質問は、とても考えさせられました。そして、上手く言葉にしてお伝えするには難しい内容ですが「人間が幸せに生きる為に、心の無い者は必要ない」と、考えております。
 大変恐縮ですが、篠田先生は死刑囚の肩をもつ文章が見受けられますが、それは、長年つきあう中で産まれた哀れみや同情と思います。
 それこそ人間のもつべき心情ではありますが、心失者を擁護しては誰も幸せになりません。
「罪を償う」とは「人の役に立つ」と、考えることはできないでしょうか。
 しかし、人の役に立つことは容易ではございません。
 生きる為には常に与えられる必要がありますので、その対価を支払えないと判断され、死刑になるのは仕方が無い選択ではないでしょうか。
 なにとぞ、宜しく御願い申し上げます。

 その前の8月26日付の手紙で彼はこう書いていた。

【8月26日付、植松聖被告の手紙】
 私の推測では、これから日本は戦争の中心となり、その戦火で私は死ぬと考えています。残念ではありますが、命を賭けた結果ですので、死を受け入れてはいます。
 篠田先生は「死」について、どのようにお考えでしょうか。私は十中八・九「無」だと思っています。
 終わりが無なら、がんばっても意味が無いと考えることもできますが、それでは“人間”として生まれた幸運を無駄にしてしまいますし、分からないことを考えても仕方がありませんので、自分ができることを精一杯がんばります。

 「現実を見ろ」と人は言う。しかしそれは、絶対にたやすいことではない。特に組織の“自転”の中では、それは不可能に近いことであろう。
 人に本当の現実が見えるのは、一瞬「我に帰った」ときだけかもしれない。「我に帰る」。すると急にすべてが、どうみてもおかしい。
 ――一下級将校の見た帝国陸軍より

 『創』に接見時の植松被告とのやりとりを紹介し、ニュアンスが違うという指摘が植松被告からあったら次号で訂正する、と書いた。それに関する9月21日付の彼からの手紙を紹介しておこう。