犠牲者遺族の間で匿名についての意識は変わってきていると思います。なぜかと言うと、「19のいのち」のサイトで、何人かの方のイラストや遺族や元職員の方の語るエピソードが今も更新されています。つまり、NHKは遺族にアタックしているわけですね。イラストであれば顔を出していいですよ、とか少しずつ変わってきているようです。NHKなど報道関係者は別としても、現在、犠牲者に直接当たっているのは太田さんで、元職員については私が何人か当たっています。

 植松被告に東京、朝日、毎日、神奈川の各紙が接見して、3月1日にその発言が報じられました。マスコミ各社の間では、「弁護士がちょくちょく接見に来ているようで、おそらく報道のされ方を見て、面会に応じるのをやめさせるという、方針転換をしたのではないか」という憶測が飛び交っているそうです。

 「聞き取り」活動をする中で考えたことは、事件の後、オリンピックやパラリンピックが来ることになって、そちらの方は名前が連呼される一方で、事件の犠牲者たちのほうは「語られない」「語るに足りる人生がなかった」ものとされてしまっている。そういう中で「声なき声」を拾い上げる、事件を風化させない、ということです。

 「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」、という言葉があります。この言葉はナチス・ドイツからアメリカに亡命したユダヤ系知識人テオドール・W・アドルノが戦後の西ドイツに帰還した際に、「文化批判と社会」(1949年)に書き記した言葉としてよく知られています。

 アドルノは、死者や犠牲者を忘却し、何事もなかったかのように「以前」の文化を保持し続けようとする肯定的な、自己保身的な態度を痛烈に批判しています。

 死者や犠牲者を前にして何もできなかった自分自身の無力さが、生き残った者の良心をさいなむというのです。容疑者によって殺害され家族によっても封印された犠牲者たちの人生とは一体何だったのでしょうか。

 役に立たないものは切り捨てる、障害者がまさにそうだ、というのが植松容疑者の論理だとすれば、それに対するアンチテーゼとして、資本主義的な合理性・効率性に対する批判になります。健常者は資本主義の論理でどんどん効率的に仕事ができるけれど、障害者はそうでない。専門的な言葉で言えば、労働価値説の世界をどう考えるか、再生産論、贈与論という問題にもつながってきます。障害者という存在それ自体が、資本主義に対する批判になるのではないかと考えています。柄谷行人は『世界史の構造』(岩波書店、2010年)においてマルクス主義的な「下部構造」を「生産様式」としてではなく「交換様式」として捉えなおすことを主張されていますが、これを理論化しなければならないと考えています。

「津久井やまゆり園」の献花台に手を合わせる男性 =2016年8月、相模原市緑区(三尾郁恵撮影)
「津久井やまゆり園」の献花台に手を合わせる男性 =2016年8月、相模原市緑区(三尾郁恵撮影)
 今回の事件は、施設職員や福祉関係者が受けた衝撃よりも、障害を持った当事者とその家族が受けた衝撃の方が大きいのではないかと思います。というのも、献花に訪れるのは障害当事者や障害者の家族が多いからです。彼らは自分の身内や親族でもないのに他の都道府県からも献花に訪れています。

 やはり当事者の問題としてこの事件を捉えているからではないでしょうか。ナイフを向けられたのは19人だけではなくて自分たちにも向けられたのだということです。車椅子で散歩をしても襲われるのではないかという不安もあるという話を聞きます。その一方で残念ながら事件があったことすら知らない障害者や、知らせない、口にしない職員や施設があることも事実です。

 しかしながら「生きた証」の公表の道筋は決して容易なことではありません。被害者家族、家族会の意向もあり、そして地域住民、運営母体である「かながわ共同会」の思惑もあります。地域社会の再生への道のりはまだまだ険しいのが現実です。