小和田哲男(静岡大学名誉教授)

 三成の西軍か、家康の東軍か…。天下分け目の戦いに臨んだ武将たちの決断を、後世の価値観をもって判別していては、彼らの想いを汲み取ることは絶対にできない。この時代の武士が重んじた価値観とは、「名を惜しむ」ことである。それは、勝つか滅ぶかの瀬戸際で、己の信念を貫いて出処進退した者にのみ与えられるものなのだ。東西両軍を問わず、そんな漢たちの決断は今も輝きを全く失っていない。

なぜ天下を「二分」する戦となったのか


 慶長5年(1600)9月15日、西軍8万4千、東軍7万4千が関ケ原で激突する。決して広くはないこの地に、東西合わせておよそ16万の軍兵たちがひしめいたのだ。耳をつんざく鉄砲斉射の轟音。こだまする将兵たちの雄叫び、そして馬の嘶き…。死闘につぐ死闘を繰り広げる陣があれば、去就を明らかにせぬまま不気味な沈黙に閉ざされた陣もある。想像を絶する凄絶な空気が、その場には流れていたはずだ。

 戦いの舞台は関ケ原ばかりではなく、全国各地で東西に分かれた戦いが繰り広げられた。まさに日本を二分する、天下分け目の戦いであった。判断を過てば、己の命運も、家の命脈も断たれかねない。武将たちは皆、魂が震え上がるような決断を迫られていた。

 諸将ばかりではない。東軍、西軍をまとめる徳川家康、石田三成の両者にとっても、決して勝ちが約束された戦いではなかった。彼らも渾身の決断のもとに、この戦いに臨んだのである。

 では、なぜ天下を二分する戦いが起きたのか。その要因は、秀吉の晩年に遡る。天正19年(1591)に名補佐役だった弟の秀長が没して以降、豊臣秀吉は「暗黒事件」ともいうべき数々の愚行を重ねていた。千利休の切腹、朝鮮出兵、豊臣秀次処断などの不祥事が繰り返されたのである。

関ケ原古戦場決戦地跡=岐阜県関ケ原町
 そんな晩年の秀吉を支えていたのが石田三成であった。三成は、江戸時代でいえば側用人のような立場におり、側近の中でも飛び抜けた存在であった。とはいえ三成は堕落していたわけではない。三成には、自分が汚れ役になってでも豊臣家を守り抜こうという「義の心」があった。しかし、「今までの秀吉様と違う」と不安を掻き立てられた豊臣恩顧の臣は、三成の真意を知らぬまま、三成こそが「暗黒事件」の黒幕であろうと見なした。秀吉の不祥事は、豊臣政権に深い亀裂を生じさせていたのである。

 そして慶長3年(1598)、秀吉は死去する。その直前、秀吉は家康に次のような言葉をかけ、幼少の秀頼の後見を託した。

 「秀頼のことだけが気がかりである。秀頼が国政を執るにふさわしくなるまでの間、家康殿に国政を委ね安全を期したい…」

 だが三成には、家康を後見役にせずとも、自分を中心とした豊臣政権の形でやっていける自負心があった。秀吉によって天下は統一されたのだから、豊臣家の世襲が当然――それが三成の考えだった。

 片や、家康からすれば「天下はまわりもち」であった。織田信長の死後、その子供たちを押しのけて秀吉が政権を打ち立てた姿を、家康は目の当たりにしている。しかも豊臣政権は分裂し、一触即発になっている。とても「乱世が終わった」とは言えない。実力あるものが天下に号令せねばならない――家康はそう考えたのであった。

 翌慶長4年(1599)閏3月に、五大老の一人で調停役も務めていた前田利家が没すると、豊臣政権内の対立はさらに先鋭化する。加藤晴正、福島正則、黒田長政ら秀吉子飼いの七将が三成を襲撃したのである。朝鮮出兵の論功などを巡り、三成への反発が昂じた結果だった。三成は何とか逃れたが、騒動の責により、居城・佐和山城にて蟄居することとなる。

 慶長5年(1600)、家康は五大老の一人・上杉景勝に謀反の嫌疑をかけた。そして家康は、秀頼の命を受けた形を取って6月18日、伏見城を発して上杉征伐に向かう。これは、三成の挙兵を促す誘い水であり、三成を叩くことで一気に天下を掌握しようという大博打でもあった。

 一方、三成もこのタイミングを見計らっていた。家康が畿内を離れた間に挙兵し、畿内を掌握した上で、家康と決戦しようと企図したのである。7月12日、三成、大谷吉継、安国寺恵瓊らが集まり、五大老の一人毛利輝元を総大将として決起することを決定。家康の罪状を十三ヵ条に列記した「内府ちがひの条々」を発し、さらに恩賞も約しつつ、諸大名に訴えかけた。

 一方、家康は上杉征伐に向かう途上で三成の挙兵を聞き、7月25日に下野国小山で評定を開く。ここで福島正則が「奸臣三成を討つため、家康殿と一緒に戦う」と発言。諸将のほとんども家康に従うことを表明する。その後、家康は江戸に戻り、以後1カ月で全国の諸将宛に「味方につけば恩賞を約束する」という内容の膨大な量の手紙を送る。

 三成方(西軍)につくか、家康方(東軍)につくか――全国の諸将は決断の淵に立たされることになったのである。