橋場日月(歴史研究家、歴史作家)

 織田信長にとって、弘治(こうじ)2(1556)年は父、信秀の死以来積もり積もった家中の矛盾を解決する重要な年となった。稲生の戦いで弟の信勝を支持する家老、林秀貞と柴田勝家らの軍勢を破り、庶兄の信広が美濃の斎藤義龍とむすんで敵対して来たのを数回にわたる戦闘で降参させたのだ。

 『信長公記』には「御迷惑なる時、見次者(みつぐもの)は稀なり」と記されているが、これは信長が困っている時に協力してくれる者はほとんどいなかった、という意味だ。ではなぜそこまで孤立していた信長が勝てたかというと、その後に同書は「屈強で武功を重ねた侍衆7~800人が部下として揃っていたからだ」と説明している。つまり、親族や重臣が「見次いで」くれなくても、彼には子飼いの直属武士がいて、団結し機動的に合戦をおこない勝利をつかんだ、というわけだ。

 この部下というのが、かつて傾奇ファッションに魔除けアイテムをたくさん提げて町を闊歩(かっぽ)していた信長の供、前田利家や佐々成政らだった。彼らは有力国人の次男や三男が多く、家のことは父や兄に任せて信長と四六時中行動をともにして来た「子飼い」の家来たちだった。信頼もおけるし、合戦でも信長とあうんの呼吸で命がけの働きを示し、烏合(うごう)の衆を負かすことができたのだ。

尾山神社の前田利家の像=金沢市尾山神社
尾山神社の前田利家の像=金沢市尾山神社
 しかし、果たして信長は利家たちの忠誠心だけを頼りにしていたのだろうか?翌弘治3(1557)年の彼の動きを見ると、どうもそれだけではなかったようだ。この年はめぼしい合戦が見当たらず、正月に嫡男の信忠が生まれるなど信長にとってはつかの間の憩いのようなひとときだった。

 そんな平穏の中で夏を迎えた7月18日、津島に彼はその姿を現した。

 「上総介(かずさのすけ)殿(=信長)は天人の御仕立(おしたて)に御成候(おなりそうらい)て、小鼓をあそばし、女踊りをなされ候。津島にては堀田道空の庭にてひと踊りあそばし、それより清須へ御かえりなり」

 当時の7月18日は現在の8月22日。つまりお盆の時期だ。信長は「天女のコスプレ」で小鼓を打ち、女舞いを踊ったのである。

 そして、その場所は前回触れた、この4年前の斎藤道三との会見をセッティングした人物の屋敷の庭だった。彼の名は堀田道空という。