瀧澤中(作家、政治史研究家)
《PHP文庫『「戦国大名」失敗の研究』より》

 合戦はほとんどの場合、偶然の出来事で勝敗が決まることはない。外交によって敵よりも多くの味方を得、多くの兵を揃え、多くの武器を持ち、有利な場所に展開することが勝因となる。味方を得ることも兵や武器を揃える経済力を整えることも、すべては大名の政治力にかかっている。周りを巻き込んで、動かす力にかかっているのである。 

 政治力のないリーダーは、どんなに能力があろうと、資金があろうと、正統な後継者であろうと、人々を動かすことはできない。 

 名将と謳われた者、圧倒的な権威者、有能な二世、将来を嘱望された重臣など、本来「敗れるはずのなかった者」が敗れたのは一体、なぜか? 本書『「戦国大名」失敗の研究』では、政治力を1つの視点に、今までと少し違った角度から戦国大名の生き様を考察し、現代にも通じるリーダーが犯しがちな失敗の教訓を導き出す。

 では、石田三成が天下を取れなかった理由について考察した「あり得なかった関ケ原合戦の計算違い」からその一部分をご覧ください。

裏切りが出る前までは完璧な企て


 石田三成の遺骨が、明治40年に発掘調査された。

 調査にあたった学者は三成の頭蓋骨の形から、彼が腺病質、つまり病弱で神経質であったと推定しているが、しっくりこない。

 トゲトゲした神経質な官僚、というイメージがそこから派生して想像できるが、三成の行動を仔細に見れば、神経質どころか、大胆不敵という以外にない。

 近江・佐和山19万4000石の三成が、関東250万石の徳川家康と一戦交える。よほどの度胸がなければやれなかったであろう。

 と同時に、緻密に戦略を練り、幾通りもある戦いの推移を想定し、こちらの弱点を補い敵の弱点を突く準備をしていたはずである。病弱で神経質な人間にできるものであろうか。

 数字を検討してみよう。

 わかっている範囲で言えば、西軍(石田三成)側と東軍(徳川家康)側の国力の差は、以下のとおりである(旧参謀本部編「日本の戦史・関ヶ原の役」ほか参照)。

 西軍 1124万石
 東軍  968万石

 兵力の差は、単純に石高から見れば西軍有利であり、実際、関ヶ原に陣取った兵力は、

 西軍 8万2000
 東軍 7万4000

 であった。

 ただし、ここには変数がたくさんあって、その最も大きなものは、西軍から東軍に寝返った者たちである。

 小早川秀秋をはじめ、石高で言えば約86万石が東軍に移動した。

 さらに言えば、当日、南宮山にいた毛利勢は結局本戦に参加せず、こういう傍観組もいた。

 三成が計算したのは裏切り者が出る前の数字であり、関ケ原本戦が始まる前で言えば、見事にプロジェクトを開始させたわけである。

 では三成の何が、失敗を招いたのか。