2011年5月、初めて宝塚歌劇を観た。宙(そら)組公演の「美しき生涯」で、NHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」や大河ドラマ「功名が辻」などで知られる大石静さんが脚本を手がけた。宝塚歌劇団が外部の脚本家を起用するのは32年ぶりということでも話題を呼んだ作品で、石田三成の生涯と淀殿との愛を描き、淀殿の生んだ鶴松と秀頼はともに三成の子と思わせる内容になっていた。

 この作品に限らず、近年は淀殿と三成が恋仲であったかのように描かれることが多いが、江戸時代の史料にはそうした噂話は一切見られない。淀殿のお相手として名前が挙がるのは、淀殿とは乳兄弟の大野治長(はるなが)、歌舞伎の創始者の一人とされる名古屋山三郎、占いの上手な僧侶といった面々で、このうち大野治長に関しては、秀吉死後のことではあるが、慶長4年(1599)10月朔日(ついたち)付の同時代史料が遺される。

 毛利輝元の重臣内藤隆春が国元にいる子息の元家に宛てた手紙で、上方情勢を報じた中に、淀殿と大野治長の「密通」の噂が書き留められ、本来なら切腹を申し付けられるべきところ、宇喜多秀家がかばい、治長は高野山に逃げたと記される。

太融寺境内にある伝淀殿の墓=大阪市北区
 この治長の高野山逃亡については、奈良・興福寺の『多聞院日記』にも記述が見られるが、注目すべきは「大坂にて去る十日秀頼母、家康と祝言これあり候、太閤の書置(かきおき)ある由に候」とあることで、秀吉の遺言により、慶長4年9月10日に大坂城で淀殿は徳川家康と結婚することになっていたというのである。けれども淀殿はこれを嫌がり、大野治長が結婚式を妨害したらしい。

 淀殿と家康の結婚に関しては、当時伏見に抑留されていた朝鮮王朝の官人・姜沆(カンハン)も、「秀吉は戊戌(ぼじゅつ)(1598)年3月晦(みそか)から病気にかかり、自分でもきっと死ぬだろうと悟って、諸将を召し寄せて後事を託した。家康には、秀頼の母淀殿を室として政事を後見し、秀頼の成人を待ってのち、政権を返すようにさせた」「己亥(きがい)(1599)年9月9日、家康が大坂で秀頼に拝謁した。(中略)家康はまた、秀吉の遺命をたてに、秀頼の母淀殿を室にしようとした。秀頼の母は、すでに大野修理亮(しゅりのすけ)治長と通じて妊娠していたので、拒絶して従わなかった。家康は、ますます怒り、修理を執(とら)えて関東に流し」た、と記している(『看羊録』)。「密通」「妊娠」はともかく、秀吉の遺言は事実だった可能性がある。

 死に臨んで、秀吉の悩みは唯一、幼き秀頼の将来であった。最も危険な人物と目されるのは徳川家康で、秀吉は、家康の孫娘千姫を秀頼の妻とすることで、秀頼の安全をはかったが、それでもなお秀吉の不安は解消されなかったに違いない。その秀吉が最後に思いついた妙案が、淀殿と家康を結婚させるという奇策ではなかったか。家康の前の正室は秀吉の妹旭姫であり、淀殿はその後釜としてふさわしい存在ともいえる。家康の嫡男秀忠の正室(千姫の母)は淀殿の妹江(ごう)であるし、2人の結婚によって、豊臣と徳川はまさしく一つになり、秀頼の安全も保証される、と秀吉は考えたのであろう。

 しかし、淀殿はこの結婚をよしとはしなかった。もし、結婚が実現していたら、その後の歴史はどのような展開をみせたであろうか。

 (大阪城天守閣研究主幹 北川央)