南欧勢力黒幕説と並んで、壮大な説となっているのが「明智光秀制度防衛説」である。以下、この説の概要に触れておこう。

 天正元(1573)年、信長は、足利義昭を追放し、「信長政権」を樹立した。しかし、京都には幕府奉公衆と奉行人で構成される「室町幕府」は存続し、その中心になっていたのが明智光秀だったという。

 信長は自身が太政大臣になり、家康を征夷大将軍とし、「室町幕府」を滅ぼそうとした。「室町幕府」の重大な危機である。光秀らはその動きを阻止すべく、信長らを討とうとしたという。

幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、月岡芳年が描いた本能寺の変での織田信長=明治11年(静岡県立中央図書館蔵)
幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、月岡芳年が描いた
本能寺の変での織田信長=明治11年(静岡県立中央図書館蔵)
 光秀は本能寺の変で信長の討伐に成功したが、家康を逃がしてしまった。原因は、細川幽斎の裏切りである。その後、幽斎は備中高松城の秀吉に本能寺の変の情報を伝え、すぐに帰京するよう依頼した。

 こうして山崎の戦いで光秀は敗れ、「室町幕府」は滅亡したのである。つまり、光秀は「室町幕府」を存続させるため、信長に反旗を翻したということになろう。これが明智光秀制度防衛説の概要である

 この説は近年の室町幕府などの研究成果を無視しており、おまけに憶測と論理の飛躍と史料の誤読と曲解を重ねただけで、まったく説得性に欠けている。

 例えば、信長が太政大臣になり、家康を征夷大将軍になろうとしたことは、まったく史料的な根拠がない。また、細川幽斎が光秀を裏切ったとか、秀吉に本能寺の変の情報を伝えたなども、単なる憶測にすぎない。

 したがって、この説の可否については、否定的な見解が多数を占めているといえる。つまり、成り立たないのだ。

 今回取り上げた説については、これまでと同様に次のような共通点がある。

 ①信頼できる史料に基づいていない。
 ②史料の誤読や曲解などに基づいている。
 ③著しい論理の飛躍。

 本能寺の変については虚心坦懐(たんかい)に史料を読み解き、冷静になって考えるべきかもしれない。壮大な説ほど注意が必要である。

【主要参考文献】
鈴木眞哉・藤本正行『信長は謀略で殺されたのか』(洋泉社新書y、2006年)
谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)
渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)