加藤清正らの奇襲を逃れた三成は伏見城に立て籠もった
秀吉の死で勃発した“内紛”の行き着く先は


不協和音


 秀吉の生前からいがみ合っていたこの両派。特に三成と清正、正則、さらには豊前中津城主・黒田長政との対立は覆いようもなかった。

 幼い頃から秀吉のもとで目をかけられていた4人だった。だが、会社でいう管理部門の道を歩んだ三成と営業部門の道を進んだ3人とは価値観を違えるようになる。

 そこに、文禄元(1592)年、朝鮮半島を舞台に起きた「文禄の役」では後方支援担当のはずの三成が秀吉の権威をバックに現場に口を出したうえに、独自の目線で秀吉に戦況報告する始末。

 続く第二次朝鮮出兵「慶長の役」では、最大の戦いとなった蔚山(うるさん)城攻防戦で三成配下の軍目付が、明国軍の攻撃で長政らは戦わなかったなどと誤った報告をするなど、軍目付と現場とが評価をめぐってトラブルを続出させる。

 さらに秀吉の死で撤兵して大坂に戻ると、そこにいたのはわがもの顔で戦後処理を仕切る三成。激怒した清正ら現場の諸将と三成の間にできた不協和音は修復不可能なところまできていた。

 そんなときに両派のつなぎ役になったのが利家だった。優れた武勇を誇り、人柄も温厚。まさに仲裁役としてうってつけの存在だった。

 しかし、秀吉が亡くなる直前から体調を崩していた利家の衰退ぶりは隠しようもなく、その死はすでに予期されたものであり、豊臣政権の中でも、まもなく分裂が訪れることを予感させていた。

襲撃


 分裂の到来はあまりにも早かった。

 利家が3月3日に玉造の屋敷で病死した知らせを聞いた武闘派はその夜、天神橋近くの清正の屋敷に集まると、大坂城の北隣、備前島(現在の大阪市都島区網島町)の三成邸へと向かった。

 襲撃場所については、前田利家の屋敷にいた三成が出てきたところを狙おうとしたという説もある。

 清正の屋敷に集まったのは、正則、長政のほか、三河吉田・池田輝政▽丹後宮津・細川忠興▽甲斐甲府・浅野幸長▽伊予松山・加藤嘉明-の各城主で、のちに清正を入れて「七将」と呼ばれることになる。

 朝鮮出兵のときからいずれは三成を討つ決心をしていた7人は、かねてから念入りに示し合わせていたのだろう。百戦錬磨の猛将の集団を印象づけるには十分なほどに統一された鮮やかな行動だった。

 「先手をとった」と思ったことだろう。三成の屋敷に向かう諸将の顔も自信に満ちていた。

 清正の屋敷から三成の屋敷までは1・5キロほどしかなかったので、30分足らずで屋敷前に到着した一団はまわりを囲んだ。だが、屋敷から反撃に出てくる兵はなく、シーンと静まりかえっていた。

 そして怪しみつつ邸内に入り込んだところ、いたのは三成の兄・正澄(まさずみ)らわずかな手勢のみ。屋敷内を捜すも三成ら主だった面々の姿はなかった。

 「三成にまんまとしてやられたわ…」。作戦が三成に見破られて悔しがる清正らの顔は、次第に焦りの表情へと変わっていった。

伏見へ


 実は、今回の襲撃情報をいち早くつかんでいた者がいた。秀吉の子、秀頼に仕えていた桑島治右衛門だった。七将の不審な動きを怪しんでいたところで、ひそひそ話でも聞きつけたのだろう。

伏見城の内堀跡にできた池。三成邸間際まで堀があったことから
「治部池」と呼ばれている
 桑島からの報告を受けた三成は、政権内で最も信頼していた常陸(ひたち)水戸城主・佐竹義宣(よしのぶ)を頼ると、間一髪のところで自邸を抜けて佐竹邸に身を移した。

 ところが、大名の屋敷という屋敷をしらみつぶしに捜し始めた武闘派の手勢が佐竹邸に迫ってきたため三成に女装をさせ、姫が使う駕籠に乗せると、五大老のひとり宇喜多秀家の玉造屋敷へ向った。

 さすがに大老の屋敷までは追っ手も来なかった。命からがら逃げた三成はひと息つく暇もなく伏見の自邸に向かう決意をする。

 伏見にある三成の上屋敷は「治部少丸(じぶしょうまる)」と呼ばれる。天正13(1585)年に秀吉が関白に就任したとき、三成が任じられた朝廷の官位、治部少輔に由来する。

 秀吉時代の最晩年に建てられたもので、伏見城西の丸の西隣にあり、屋敷の間際まで迫っていた内堀は今も残り、「治部池」と呼ばれている。

 このように城に組み込まれていた屋敷なので、いくら武闘派といっても無謀なことはできないだろうという三成なりの計算が働いたのではないだろうか。

 4日、義宣に伴われて伏見城に入ると自分の屋敷に立てこもった三成は武闘派軍団を待ち受け、追いついてきた七将と堀を挟んでにらみ合いの状態がしばし続いた。

 「出てこい」「一戦交えよ」。ときおり屋敷に向けての怒声が、殺伐な空気が漂う伏見城周辺に大きく響きわたった。