「編集権」についてとやかく言うつもりはなかった


(瀧誠四郎撮影)
 私が朝日新聞での連載「新聞ななめ読み」を始めたのは、朝日だけでなく、いろんな新聞の比較をすることがそもそもの狙いでした。月に1回、言ってみれば新聞時評みたいなものですよね。「朝日新聞の記事は分かりにくい」と随分批判もしてきましたが、それに対して担当部局のデスクから抗議が来たりすると、それも紹介しつつ、反論も書いたりして、新聞記者との双方向性を持つというやり方でやってきました。

 朝日以外にも読売や産経の話も書いたりしたことはあったんですが、ある日突然、掲載できないという話になったんです。もちろん、新聞社には編集権がありますから、最終的に掲載する、しないを判断するのは、それぞれの新聞社が決める編集権ですよね。それについて著者が「載せないのはおかしい」とか、そういうことを言う立場ではないと思うんですよ。

 朝日は編集権を行使したに過ぎないわけですから、「それはどうぞ」と。もちろん、それについてはとやかく言いませんとも。ただし、これまで「何を書いてもいいよ」と言われてたのが、突然そうじゃなくなるんだから信頼関係が失われたも同然ですよね。

 だから、私は「もう書きませんよ」と言っただけなんです。それは、朝日新聞と私との間の、要するに発注者と著者との間の話でしょ。それはどこの新聞社だってやりとりはあるわけだし、出版社だって雑誌社だってあるわけですから。それについて、私は誰にも言うつもりはなかった。あくまで会社との話でもあるから、もう終わった話だし、もう連載はきれいさっぱり終わったんだもんね、と思っていました。

 そしたら、突然週刊誌から次々に問い合わせがあり、まあ朝日の社内で、週刊誌に言った人がいるわけですよね。週刊文春も週刊新潮も「朝日の人から聞いたんですけど」ってきましたから。で、こんな騒ぎになっちゃった。私の中では終わってた話ですし、それがこんな形になってしまった。

 当時、コラムの不掲載を決めたのは「上層部で…」という言い方を朝日の担当者もしていました。現場は掲載したいと思っているのに「上層部がうんと言いません」という言い方でした。こちらとしては「上層部って誰ですか?」と聞こうとも思わなかった。さっきも言ったように編集権を行使されただけですから。別に関心もなかったので、確認もしなかった。ただ、それだけのことです。

 朝日の第三者委員会では木村伊量前社長が不掲載を決めたという結論が最終的に出ましたよね。本人もそれを受け入れるみたいな。渋々認めるような不思議な展開でしたけど。でも、本当は会社の中で、きちんと何があったのかということを調べて検証する、という自浄作用が働かなければいけないんだけど、朝日にはそれができなかった。そのことは残念だけど、よく言えば朝日は第三者委員会ってものを設置して、事実が解明されたわけですよね。考えてみれば、新聞記者だってサラリーマンなんですから、自分が勤める会社の社長だった人を問い詰めて確認するってやっぱりなかなかできない。そういう意味では、第三者委員会で一連の経緯が明らかになったことは良い事だと思う。

 そこでいろんな膿といいますか、角度をつけすぎた記事であるとか、あるいは過剰な使命感から記事が歪められてしまったみたいな指摘を受けて、「朝日の病根」っていう言い方は言いすぎかもしれませんけど、そういうものを明らかにして紙面に出して説明したことは、これまでにない前向きなことではないか。そして、さらに言えば、1月5日の朝日社長会見でも「編集」と「経営」をきちんと分離すると明言しました。これはマスメディアにとって永遠の課題ですよね。産経新聞だって編集権は独立しているでしょうけど、でも会社の危機になれば、そのときの社長が何を言うか分からないというのは有り得るわけでしょ。いや、きっとありますよね。あまり人のことを言っていられないわけですよね。

 そういう意味でも、「経営」と「編集」の分離、あるいはどうしても経営にかかわる時には第三者を入れてきちんとオープンにするんだ、という姿勢は画期的なことだと思う。他の新聞社はできてないでしょ。他のテレビ局だってできてないと思うんですね。他にも訂正のコーナーを常設するというのは、これも画期的なことですよね。これまでどの新聞社も、なるべく訂正は載せたくない。たとえ載せても目立たないようにする。一面トップの大きな記事でも小さく訂正を載せるというのは、産経新聞でもあったと思いますけど、一連の問題を受けての朝日の対応は画期的なことではないかなと思う。

 もちろん、本当にそうなるかどうかは分からない。これからやるっていうんだったら、じゃあ、こちらはそれを監視し批評をするという役割で「連載を再開しましょう」と決めました。1月5日の夜に申し上げたんですが、各社からは「コメントください、ください」とずっと追いかけ回されてました(笑)。

現場の「屈辱感」が編集権の独立を担保する


 朝日の人と話していて、なるほどと思ったのは、今回の場合でいうと、編集部門は僕のコラムを掲載しようとしていたわけです。でも上層部、第三者委員会でいうところだと当時の社長ですよね。経営陣から載せるなと言われて、現場は抵抗したけど最終的に屈服しちゃったわけです。その「屈辱感」を現場の誰しもが持っている。こういうことが二度とあってはいけないという反省みたいなもの。実はそれが「編集権の独立」を担保するのではないかと言っている人がいて、なるほどなと思いましたね。

(瀧誠四郎撮影)
 逆に言えば、今後もし経営者が編集に介入しようとしたら、「第三者を呼ぶんだよ」「オープンにするんだ」という仕組みが朝日にはできたわけですから。これは経営者がうっかり編集に介入しようとすれば、オープンになってしまうと思ったら、それだけで歯止めになる。つまり、会社の体質うんぬんではなくて、歯止めをつけるとか、ブレーキをかける仕組みを朝日はつくったんですよね。

 むろん、代が変わっても、その精神や仕組みが継承されるかどうかという懸念はあるわけですけど。あなた方も新聞記者である以上、自分が書いた記事について正当な理由もなく、上層部から「これはやめろ」と言われたら許せないはずです。屈辱ですよね。やっぱりそれに屈してしまったということは記者人生において、ものすごい汚点だと思うんです。朝日の人たちにとってみれば、今回のことにかかわった一人ひとりの記者人生においての汚点でもある。これからもトラウマになるかもしれませんけど、その反省から二度とそんな失敗はしないっていうことを思うことが大事なんじゃないかな。

 これは他の新聞社の記者からも言われたんですが、「朝日のような対応はうちじゃできない」と。朝日の問題を受けて、ここのところいろんな新聞が訂正を大きくしたり、訂正の内容を分かりやすくしましたよね。そういやこの前、産経さんが朝日の件で江川紹子さんのコメントを無断で使ったことが問題になりました。あの後、産経新聞が記者を処分した経緯の記事がとっても分かりにくいと聞いたんですけど。なんで、どんなことをやったから処分になったかと書いてないんですよね。こんなことになれば、当然産経さんだって批判される側に立つ。

 ましてや、朝日のことを散々叩いてきたわけでしょ。江川さんの件でなぜ処分したかまったく説明がないわけですよ。読者のことをまだ考えてないなと思いますよね。最近、日経新聞の訂正も非常に丁寧になりました。前はただ「訂正します」という言葉だったのに、最近は「お詫びして訂正します」に変わった。そういう意味でも、それぞれの新聞社が襟を正すようになったのは、とても良い事なんじゃないかな。

 もちろん、これはあえてメディアにおける今回の朝日問題のプラス面を言えばですよ。ただ、その一方でマイナス面を言うと、やっぱり新聞に対する不信感が大きい。最初は朝日に対する不信感だったわけですけど、今度はそれをライバル紙である産経さんや読売なんかも激しく叩くわけでしょ。これも読者にしてみると、「本当に真実とか事実を追及するためのものなんだろうか」と思ってしまう。でも、すぐに販売店からチラシが入るわけですよ。「うちの新聞をとりましょう」と。それを見ちゃうと「あれ? 商売のためなんじゃないの」と思ってしまう。たとえ、そういうつもりがなかったとしても、きっと読者はそう思いますよね。

 だから、今回の問題は結果的に新聞業界全体に対する不信感に広がっていったんじゃないかと思っています。朝日が部数を減らしてますけど、はたして読売さんや産経さんは増えてます? そういや毎日新聞は微増だと言ってましたね。減り続けていたのが微増ということは結構増えているということになるのかもしれないけど、たぶん朝日の購読を止めた人の多くがこれを機に新聞購読をやめたんじゃないかと思うんですよね。新聞業界全体が実はマイナスになっていると。そういう危機感を持った方がいいんじゃないかなと思いますね。だからこそ、今回の朝日問題は他の新聞社においても「他山の石」にしてほしいなと思います。

「角度」をつけて記事をつくることとは


 そういえば、朝日の第三者委員会の報告について、産経新聞は朝日の過去の記事が国際的に悪い影響を与えたと、大きく報じていましたよね。それが見出しにもなっていたでしょ。産経は産経で「角度をつけて記事を書いているよな」と思いました。

 それにしても「角度」をつけるっていう表現は不思議ですよね。かつて私が勤めていたNHKでもそんな言葉はなかった。ただ、よくあるでしょ。例えば、新聞記者が第二社会面トップぐらいというつもりで書いたら、突然デスクから「一社トップで行くぞ」とか、「一面で行くぞ」とか言われたりする。デスクからは「リード(前文)を工夫しろ」とか、「イーハンつけろ」とか言われません? きっとあるでしょ。今の若い人には意味が分からないかもしれないけど。

 どんな記者だって、突然「トップにするぞ」と言われたら、「イーハンつけろ」と言われたらやるでしょ。なんとかでは初めてとか。世界初と言えないならアジア初とか。なんじゃそれ、みたいなのが時々ありますよね。

 つまり、イーハンつけろよというのが、朝日でいうところの「角度をつける」ということなんでしょうね。でも、角度をつけるということは、ちょっと偏ってしまうことになるのかなとも思います。イーハンつけるということは、もう少しニュースバリューを際立たせろということですよね。でも「角度」という言い方は不思議だなと今でも思います(笑)。

朝日の問題は「不良債権処理」と同じ


1月5日、記者会見する朝日新聞社の渡辺雅隆社長(大西正純撮影)
 朝日について言えば、一連の問題を訂正したり、お詫びする機会はあったはずなのに、それをずっと放置してきたという人がいます。これはものすごく、日本的な企業風土だと思うわけですよ。朝日だけではなくて、日本の企業だったらどこにでもある話。新聞社の感覚で言えば、大阪社会部が書いた記事だから、東京社会部は知らないよと。こんな経験あるでしょ?

 あるいは、過去に起きたことだし、なんで今さらほじくり返すの? みたいなことになる。当時書いた人が今、会社の上層部にいたら、その人の過去を掘り起こすことになってしまう。それはそっとしておこうとか、自分の時に問題にならなければいいから先送りするって、誰しもが思う感覚なんですよね。

 バブル経済が弾けた後の日本の金融機関はみんなそれをやってきたわけですよ。バブルが弾けて、どんどん不良債権が積み上がり始めた。担保となった土地を早く処分すればいいのに、それを処分して不良債権だと切って捨てると、前任者が間違っていたということになる。たとえば、それをやった人が今は本社の偉い人になっていれば、こんなことをやると自分の出世に響いたりするから、自分の時だけは何事もなく、後に任せればいいやと思う。「先送り、先送り」といって気がついてみたら、不良債権がものすごいことになって、「飛ばし」にした。飛ばしにして、帳簿から消したでしょ。あれと同じですよ。
 
 あるいは、不良債権の額をわざと低めに抑えたりして、実際に金融庁が調べてみると、どーんと額が増えましたよね。結果的に不良債権処理に失敗して金融破綻が深刻な問題にもなった。朝日新聞とそっくりだと思いますよ。いや、朝日新聞だけじゃなくて、日本の企業風土としてよくあることだと思う。むしろ、そっちの観点からこの問題を考えた方がいいんじゃないかと思います。

 当然ながら、産経新聞にだってあり得るということです。もちろん、今のご時勢なら、すぐ膿を出す努力はするでしょうけど。昔は産経さんだって、誤報を出してもほっかぶりしたことがあるわけですから。それは朝日特有の問題とみてしまうのは間違いなんじゃないかな。日本的な企業風土として、どこでも有り得ることなんだよと考えた方がいいんじゃないかな。だからこそ、朝日が報じた吉田証言というのは「不良債権」そのものだったんですよ。不良債権の処理をしないで、放置している間にどんどんそれが膨らんでしまった。それが今回、やっと不良債権処理に踏み出したわけですよね。

朝日新聞の国際的影響力とは


 朝日の問題で言えばもう一つ、一連の慰安婦報道が日本の国際的評価を貶めたという指摘があります。これについて第三者委員会の中で、本当にどれほど影響があったのかどうか、林(香里)先生が定量的に分析しています。

■データから見る「慰安婦」問題の国際報道状況(朝日新聞デジタル)
http://www.asahi.com/shimbun/3rd/2014122204.pdf

 データによれば、実は思ったほどの影響ではないという話になっていましたよね。あれがなかなか難しいのは、産経さんが日本を貶めたのは朝日の影響力が大きいと言えば言うほど、朝日新聞は国際的信用度が高いみたいに思えてしまう。朝日を叩くことがかえって、日本を代表する新聞という風に持ち上げられてしまって、これは痛しかゆしだなって感じがする。林先生が分析したデータを見ると、確かに言われているほどの影響力はないって結果なんですよ。あれはあれで結構、おもしろかったですけどね。

 もちろん、報道の影響力というのは活字の面積やテレビで放映された時間だけで計れるものではありません。ごく小さな記事でも、人間の記憶に残ることだってあります。「強制連行した」という証言が日本国内でそれなりの衝撃を持って受け止められた部分が、海外ではどうなのかというのは実際のところよく分からない。別に朝日の影響力がなかったとは言いませんし、逆にどれだけあったのかと言えるだけの根拠を私は持っていないので。全くなかったはずではないけど、じゃあ、どれだけあったのかというのも、実はよく分からない。

 ただ一つ言えるのは、「慰安婦」という言葉自体がひとり歩きしたという影響はあるわけでしょ。「女子挺身隊」が「慰安婦」とイコールの、あの間違いの方が大きいと思います。女子挺身隊を慰安婦と混同した部分に関しては、たとえば韓国では「慰安婦20万人説」っていう話まで出てきちゃうわけです。この責任はありますよね。明らかにね。強制性に関しての国際的な影響力っていうのは、私もそれを判断するだけの材料がないので自分としては言えませんけど、女子挺身隊と慰安婦を混同させたのはやっぱり問題だと思います。これは朝日の責任として、今後も国内外に向けて「実は間違っていました」ということを言い続けるべきだと思います。

 この問題について、一読者として最も違和感があるのは、産経さんが「朝日はその責任をどうするんだ、どうするんだ」と追及してるでしょ。極論かもしれないけど、産経新聞が朝日に代わって世界にアピールすればいいんじゃないですか? 少なくとも私はそう言いたくなるんです。日本を代表する新聞としてきちんと論陣を張り、世界に向けて「朝日は間違っている」ということを発信すればいいじゃないですか。やはり言論をもって言論をということだと思うんです。読売さんだって、朝日は違うとかやっているわけでしょ。読売は読売できちんと論陣を張る。産経は産経でやる。また、毎日や東京もまた別のやり方をやればいい。それが本来のあり方じゃないですか。人を叩いている暇があったら、自分のところで誇りをもってやりなさいよと、私は言いたいですけどね。

朝日を叩くなら言論を戦わせるべき


 私は昨年、週刊文春に「朝日のことを言えない新聞社やテレビ局だってあるんじゃないんですか?」という記事を書きました。過去には私の連載を突然打ち切った新聞社だってあるわけです。それは編集権の問題だから、私はそれについて誰にもとやかく言ってませんけど、たまたまその新聞社は組織内で鉄の結束があって、社員は誰も外部に漏らさなかった。だから、今まで知られないで来ただけの話でしょ。

 かつて私がいたNHKにおいても、経営が編集に介入するというのはあって、みんなが地団駄を踏んで悔しがったこともあります。そんなことは、いろんなところであるんじゃないですか。週刊誌の広告掲載を拒否した新聞社だって他にもあるのに、朝日新聞が週刊誌の広告掲載を拒否したことだけが、けしからんと書くのは違うんじゃないですかということを言ったわけです。私は「朝日叩き」が悪いとはどこにも書いていない。自分たちだって過去に同じことをやっているのに、朝日だけを叩くというのは違うんじゃないかと思います。

産経新聞に掲載された週刊新潮、週刊文春の広告と、朝日新聞の慰安婦問題に関する特集記事=8月28日
 そういえば、週刊文春は「売国」という言葉を使って朝日の問題を報じましたよね。「売国」っていう言葉は、メディアとして使うべきではないと思います。光文社のフラッシュでは「朝日新聞の社長を国会招致せよ」という見出しをつけた。出版社が政治介入を積極的に求めるってどういうことですか。要はフラッシュの記事をめぐって何かあったときに光文社の社長を国会招致せよって言われたら、どんな気持ちになりますか? そこですよね、私が言いたいのは。だからこそ、言論には言論でやりましょうと常々思うわけです。

 「メディアスクラム」とかよく言われますけど、メディアスクラムが問題になるのは、たとえば事件があった時の、一個人、いわゆる市井の人、一般の人に対してメディアが「ワーっ」と押しかけてやるっていうのは、やっぱり人権問題だと思います。でも、朝日について言えば、メディア界においてそれなりの権威がある。大企業に対しての過熱報道というのは、それはありですよね。ありって言い方は変だな。それについて、とやかく言うことはないんだろうと思いますよ。

 新聞社の場合、そこに販売店が絡んでくるから、またちょっとおかしな話になってくるけど。読者からみれば、結局部数を増やしたいからだろうと見られちゃいますよね。そこでまた編集と経営の分離という観点からみると、経営者から「朝日を叩け、やれやれ」と言われて報道が過熱しているのではないか、と勘繰ってしまいますよね。

 もちろん、新聞社だって民間企業だし、営利企業、株式会社なんだから当然といえば当然なんですけど。その一方で、読者は言論機関、報道機関として新聞をみているわけですよね。そこで疑いを持たれるようなことがあっちゃいけないと思います。

 この問題に関して言えば、元朝日記者の植村隆さんがひどい個人攻撃を受けてしまった。そこら辺の経緯は私も良く分からないからコメントできないですけど、ただ植村さんが最初は神戸かなんかの大学の先生に決まっていたでしょ。あの時、週刊文春がそれを暴露した。あれはやりすぎだと私は思いましたね。こんなやつをとってもいいのか、この大学への抗議をみんなでやろうと、あたかも煽ったかのように思えますよ。

 これについては週刊文春の責任が大きいと思います。植村さんが誤報したのだとしたら、それを追及されるのは当たり前ですが、だからといってその人の第二の就職先はここだと暴露する必要があるのか。それが結局、個人攻撃になっていったり、娘さんの写真がさらされたりみたいなことになっていっちゃうわけでしょ。ものすごくエスカレートする。逆に言えば、産経さんはこの件に一切関与していないにもかかわらず、なんとなく植村さんへの個人攻撃から娘さんの写真をさらすことまで、全部ひっくるめて朝日をバッシングしているのが、産経さんであるかのようにみられてませんか? 産経さんの誰かが書いていましたよね。うちはちゃんと分けているのに、全部ひっくるめて批判するのはおかしいって。そんな風になってしまったのは、これまた不幸なことだと思いますね。

ラジオからテレビ、紙からネットへの変革


テレビ東京系選挙特番「池上彰の総選挙ライブ」の
会見を行った池上彰氏=2014年12月2日
 朝日の問題は、ネットでも特に注目を集めました。ネットを利用する人が情報収集する時にググると、産経の記事もネトウヨのブログも一緒になって出てきちゃうわけでしょ。並列で出てきちゃって、次々に読んでいると、どこで読んだかよく覚えてなかったりしたという経験だって誰しもきっとある。

 新聞社の記事というのは、きちんと訓練を受けた記者が「プロ」として書き、さらにデスクが手直しして、校閲がもう一度チェックするという、何段階ものプロセスを経て世に出ますよね。

 その一方で個人がやっているブログなんてのは、思い込みだったり、勝手な意見を随分出していますよね。ネットの世界では、それが一緒にされている危険がものすごくあると思うんですよね。

 確かにインターネットができて誰もが記者になれる。みんなが情報発信できる。それはその通りなんですけど、結果的に取材をし、事実関係を確認し、報道することの恐ろしさって、我々は知ってますよね。間違えたらどれだけ大変なことになるのか。でもネットしかやらない人はそういう怖さを知らないわけでしょ。結局、人違いになったりして名誉棄損で訴えられたりっていうことがたびたび起きている。こういう時こそまさに「プロの力」というのが、ネットの中でもとりわけ必要だと思うし、今まさに問われているんだと思います。

 ただ、ネットの記事っていうのはPV(ページビュー)を稼いで広告料をとるわけでしょ。週刊誌と同じですよね。一定の購読料とは別になってます。今、話をしていてふと気がついたんですけど、そもそも紙媒体とは根本のビジネスモデルが異なるのがネットメディアですよね。

 メディアの歴史をひもとけば、民放テレビが始まったとき、ラジオ局がテレビを始めたんです。ラジオこそが本流だと思っていた連中は当時、テレビには誰も行きたがらなかった。当時のエリートコースの連中がみんなラジオに残って、上の評価がめでたくなかったり、はぐれ者がテレビに行かされたんです。そういうエリートじゃない、いろんな連中がいたことによって、テレビは活性化していくんです。だから、今の紙媒体とネットメディアって、かつてのラジオとテレビの関係に近いのかなとも思います。

 テレビが出てきたときに、映画界では映画俳優をテレビに一切出さないという「五社協定」というのがあって、東映とか日活とか、5社が協定をして、映画俳優は一切テレビに出なかったんです。そうやってテレビを困らせようとしたわけですが、テレビ局は仕方がないから、自分たちでテレビドラマの俳優を発掘した。そこからみるみるテレビドラマの人気者が誕生していった。

 いつしか映画が没落していき、結局は映画俳優も「テレビに出してください」という流れに逆転するわけです。明暗を分けるというか、新しく主役が代わるという時は、そういうことが起きるんだろうと思う。今はネットのルールというか、作法というのか、そういうものがまだ成熟していない。でも、これからきっと成熟していくのだと思う。いや既存メディアこそ、そういうものを積極的につくっていく役回りを担う必要があると思います。

既存メディアが進む未来とは


 ただ、ネットユーザーの中には、ネットにこそすべての正しい情報がある。マスゴミは信用できない。ネットには真実があるみたいに、本気で思い込んでいる連中がいる。困ったもんですよね。すべて同列にみえてしまうっていうところが怖いですよね。そこが、まさに既存メディアが苦戦、苦闘していることでもあります。その中から何かルールなり、作法が生まれてくる。それを作っていかなければいけないんだろうと思います。なかなか見えてこないですけど。それはひょっとして我々のような古い、オールドメディアの連中だから分からないのかもしれない。もしかしたら、物心ついたころからインターネットでずっと慣れ親しんできた人たちが、また新しいものをつくるのかなとも思います。

(瀧誠四郎撮影)
 それでも、既存メディアの将来について一つだけ言えるとしたら、これから紙の新聞ってのは必ず減っていきます。この先も減り続けると思ってます。でも、絶対になくならない。必ずどこかで止まるんですよ。逆に、日本の新聞の発行部数が異常に多すぎる。産経さんは少ない少ないって言うけど、いま160万部もあるんでしょ? ニューヨークタイムズやワシントンポストってどのくらいです? 100万部ちょっとでしょ。ニューヨークタイムズ、ワシントンポストに比べれば産経新聞ははるかに多いんです。だから1千万部なんて言っている新聞があるけど、実際はもうちょっと少ないんでしょうけど、世界規模でみると日本は異常なんですよ、あれ。

 実はこれまでが異常だった。本当に紙のものをある程度きちんと読んでくれる人のレベルって、こんなにたくさんいるわけないですから。そういう意味では減りますよ、日本中の新聞すべてが。朝日も産経もまだまだ減りますよ。でもどっかで止まるんだと思っています。ちゃんと手に取って読んでくれる良質な読者をどうやって抱えていくのか。そして、紙では読まないけれど、ネットでは読んでくれる人をどれだけ取り込むのか。理想をいえば、ネットでも重要な記事やコンテンツは課金する流れができたらもっといい。

 課金に関しては、ニューヨークタイムズも成功しているわけでしょ。日本だと日経新聞がとりあえず成功している。金儲けの部分だけはうまくいっているわけです。産経新聞だって正式名称は「産業経済新聞」なんですよね。経済ネタだけは課金をするような形とか。うまいやり方は正直分かりませんけど、あるいは産経ならではの正論なり、主張なりという部分は「お金を出して読んでください」みたいなこともできる。利益は出なくても赤字にはならないで済むようなビジネスモデルを考える。持続可能なものとしてね。いまどこの新聞社もデジタル部門はトータルとして赤字なんじゃないですか?

 今後、その赤字をどれだけ減らしていくのか、そこで利益を上げようとしても現時点ではとても無理ですから。より良いビジネスモデルを模索する時期なんだと思う。やっぱりメディアというのは、結局は読者がお金を出してでも読みたいと思う記事をどこまで出せるかに尽きる。いま、新聞を定期購読をしている人っていうのは、その多くが惰性で取っているでしょ。でも、数は減っているとはいえ、キヨスクでお金を出して買ってくれる人もいるわけです。110円を出して産経新聞を買っている人が必ずいる。そこには買った人が読みたいなと思う記事があるからですよね。個人的な意見ですが、近い将来、ネットメディアでも100円を出してでも読みたいっていう記事がもっと増えればいいなと思いますけどね。(聞き手 iRONNA編集長、白岩賢太/川畑希望)

池上彰(いけがみ・あきら)
 昭和25年、長野県生まれ。元NHK記者。平成6年から11年間「週刊こどもニュース」のお父さん役を務めた。17年にNHKを退局し、フリージャーナリストに。 東京工業大学リベラルアーツセンター教授。近著に佐藤優氏との共著『新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方』(文春新書)。


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