さて、話題はその憲法自体の改正議論に移りたい。
 憲法という法規範は、本来、全く相いれない価値観を大切にしている個人がそれぞれ「自分らしく生き」ながら「共生」を図るという、二律背反を克服するための極めて包容力の高い寛容な法規範のはずである。しかし、ひとたび憲法が議論の対象になると、激しい思想的分断を生んでしまう。日本国憲法が、戦後日本の公論・思想空間の分断を助長してしまっていたといっても過言ではないのである。

 これからの憲法論議は、この分断を超える、分断を治癒する、誰も置き去りにしない憲法論議を涵養(かんよう)すべきである。

 憲法の本来の包容力の源泉は、憲法を憲法たらしめている自由や権利、そしてそれを保障するための厳格な権力統制の仕組みといった普遍的価値である。憲法論議も、この価値を社会の中で実践するにはどうすべきか、という大命題からスタートすべきである。重要なのはこの憲法的な価値を守ることであって、「憲法典」という今ある成文憲法を守ることではない。これは、成文の憲法典を持たないイギリスでも「憲法改正」論議があることを考えれば、「憲法改正」=「憲法典改正」ではないということは容易に理解できるのではないだろうか。

 今までの「改憲/護憲」の議論は、「日本国憲法」という特定の憲法「典」を改正するか否かに問題が矮小化され、いわゆる「改憲」VS「護憲」という教条主義的二項対立に膠着(こうちゃく)してしまう。改憲論議も、いわゆる憲法が掲げる諸価値や権力統制を強化するために改正が必要か否かという視点で進めていくべきである。

 すなわち、憲法も国家統治のための「法」なのであるから、過度の思い入れなどの情念や、詩的・抒情(じょじょう)的な創作意欲などで改正の是非を議論すべきでないのはいうまでもない。国の政治の在り方や、これを構成する市民社会の自由及び権利について、どのような制度設計をすべきなのか、まずはこの大枠で大上段のビジョンが欠かせない。
衆院本会議で所信表明演説する安倍晋三首相=2017年11月、国会(松本健吾撮影)
衆院本会議で所信表明演説する安倍晋三首相=2017年11月、国会(松本健吾撮影)
 憲法はこの社会とは独立して真空状態では存在しえず、この社会を構想し規律する法規範である。憲法改正論議も、現代の生ける社会が抱える権利衝突や社会的病理現象に対して、憲法がどのような応答ができるのかという巨視的な視点から、個人の権利の拡充、権力均衡の回復、熟議民主主義の再興、等の大きなテーマや問題意識の設定から出発しなくてはいけない。この、テーマやビジョンの設定こそ、政治家の仕事である。

 この、①政治哲学や国家ビジョンがあるからこそ、②そのテーマを実現するためにどのような改正項目が挙げられるかが俎上(そじょう)に上り、③挙げられた改正項目をどのように変えるかの提案から④具体的な条文案へと落とし込まれる。

 このような思考の順序をたどれば、「憲法改正論」として議論すべきは、「憲法典」に限られない。いわゆる「憲法附属法」(法律や規則も含む)も含めた、壮大な「憲法改革」とでもいうべき一大工事となる。憲法を頂点とした法秩序全体と現実の社会との間を行き来し、これらを横断的に見渡した構想を掲げることこそ、「憲法改正」である。