憲法を取り巻く公論が、憲法の役割や存在意義そっちのけの教条的二項対立に分断されている間に、憲法が保障する権利の網の目からこぼれている個人はいないか、この憲法が権力を縛った鎖は錆びていないか、我々の声を国家統治に通す「民主主義」という名のパイプは詰まり気味あるいは歪(いびつ)な形になっていないか。残念ながら、これらには悲観的な回答をせざるを得ないと考えている。

 9条は交戦権と戦力を否定しながら、自衛隊を保有し、政府解釈でかろうじて縮減している“とされてきた”自衛権も、その政府解釈によって集団的自衛権の行使まで容認された。この点、国際法(国連憲章51条)上、主権国家には(個別的・集団的)自衛権の行使が認められていることは当然だが、国際法上適法に認められた武力行使が(個別的・集団的)自衛権であり当該武力行使が国際法上どのように評価されるかということと、国内最高法規である憲法によって特に自衛権の行使の範囲(武力行使の発動要件)を規律することは別である。
「島嶼作戦」の訓練を披露する自衛隊員たち=2017年11月、那覇駐屯地
「島嶼作戦」の訓練を披露する自衛隊員たち=2017年11月、那覇駐屯地
 規律された要件の下で行われた武力行使が国際法上どのように評価されるか、それだけのことだ。憲法で自衛権の発動要件を主権国家がその国の事情で縛ることは国際法上の自衛権の存在を否定することにはならないし、当然、憲法で国際法上の自衛権を否定したり創設したりすることはできない。国際法至上主義の立場からこのことを意図的にミスリードして、「自衛権の規律は国際法でしかできない」という見解も存在するが、国家の主権を認め国内最高法規(=国民意思)で武力行使の発動を規律することの批判になっていない。
 
 さて、国家最大の暴力たる軍について「無き者」にされている憲法では、軍について規律することはできない。軍を前提とした法秩序を前提としていないからである。軍の存在を真正面から認め、これを国会(シビリアンコントロール)、内閣(内閣の権能としての軍事の明記)、司法(軍法会議の創設)、財政(予算措置からの統制)という、統治規定の総力戦で統制していく。そして、9条の魂は「軍縮」なのだから、立法技術的視点は措(お)いても、その魂を刻み込むべきだ。

 軍事こそ、統治の技術の粋を集めて規律すべき最優先最重要課題であり、これを放置しては「立憲主義」に悖(もと)る。

 また、憲法の規定はいわば刑法でいう構成要件であり、合憲か違憲かの判断基準を提供する。しかし、判断基準だけでは、違憲の状態を是正できない。つまり、大事なのは基準違反の是正を担保する「実行力・執行力」である(民事では強制執行、刑事では刑の執行により担保されている)。これが伴ってこそ、法規範の実効性が生まれる。今までは、日本国憲法は、まさに「公正と信義」に信頼して運用されてきたため、細かく規定しなくてもその「行間」を「抜け穴」として行動する為政者は幸いにも現れなかった。

 しかし、安倍政権の登場により、「行間」は「抜け穴」と読み替えられ、そのエアポケットで権力者は縦横無尽にふるまっている。「行間」の番人であった内閣法制局も今や人事を通じて骨抜き状態で機能していない。

 現憲法ですら「違憲」と判断されうることにお構いなしなのだから、「違憲」のハードルを下げた(違憲と判断しやすくする)ところで、守られないという点では変わりない。すなわち、これを強制的に是正する「仕組み」が必要である。

 具体的には、憲法裁判所の創設によって憲法の規範性・強制力を担保すべきである。司法官僚組織とは独立した憲法裁判所の創設は、最高裁改革にも着手することを意味し、ここに真の司法制度改革がスタートするだろう。最高裁と政権与党の間の、“法律に違憲判断をしない代わりに最高裁には手をつっこまない”という緩やかな「共謀」は、司法権の独立と権力統制機能を画餅にしつつある。このような改革案は、野党こそ提起できるものではないか。