繰り返すが、宣戦布告を行って戦争を開始する主権国家が持つ「交戦権」なる権利があるという考え方は、根本的に時代錯誤的なものである。武力紛争において交戦状態に入った交戦者には、国際人道法の観点から、権利と義務がある。しかしそれを「交戦権」などと総称し、否認してみたりするのは、ガラパゴス主義解釈の極致だろう。特異な日本の戦後憲法学の傾向がなければ、起こりえなかった事態だろう。

 倉持氏は、いびつな「交戦権」理解に対する分析的な視点を一切持たず、「自衛権」が自衛隊の活動の根拠になるという基本を強調することもしない。自分勝手な「交戦権」理解の内容について説明することもない。ただただ、日本だけにしかないガラパゴス「交戦権」概念を振りかざしたうえで、「必要最小限度で交戦権を解除する」という改憲案を提案するのである。

 自衛権は国際法上の概念である。国際法の必要性と均衡性の原則に基づき、適切に自衛権が行使されているか、という議論をするのが、最も妥当なやり方だ。「交戦権」の行使に、「最小限」かそうでないか、といった抽象的な判断材料を持ち込むのは、全く混乱だけを招く行為である。

 倉持氏は「解除」すると表現するが、執行を停止している「交戦権」なるものの根拠となる国際法規範は、存在していない。したがって本来は「解除」することもできない。倉持改憲が実際に追及しているのは、独自の「交戦権」なるものを世界に先駆けて導入する、ということである。「解除」ではない。「創設」なのである。倉持改憲案が「交戦権」なる概念を、改憲を通じて、世界に先駆けて法的世界に「創設」しようとするのである。

 日本の憲法学では、自衛権と交戦権を区別せず、自衛権の行使を意図的に「自衛戦争」などと勝手に言い換えて、戦争行為だとみなす。そして否定しようとする。戦争は国際法で禁じられている。それでも自衛権が国連憲章51条で認められているのは、自衛権が国際法上の権利であり、自衛権の行使として必要性と均衡性の原則によって認められる武力行使は、憲章2条4項の武力行使の一般的禁止の例外となるからだ。

 こうした国際的に確立された規範をすべて無視しておいて、自分勝手に「解除」を唱え、実際には意味不明の「交戦権」を日本国憲法に導入しようとする。そのような態度は、控えめに言って、極めて独善的なものである。

 要するに倉持改憲案は、ガラパゴス憲法学の象徴といってもいい改憲案だ。この改憲案が成立したら、日本という国全体のガラパゴス性も、決定的なものとなるだろう。将来にわたって深い禍根を残すことは間違いない。

 拙著『集団的自衛権の思想史』(風行社)で論じたように、集団的自衛権が違憲だという議論が出てきたのは、佐藤栄作政権末期の1960年代末である。内閣法制局見解として固まったのは、沖縄返還と田中角栄政権成立直後の1972年のことである。安保闘争時の左右対立の激化を避けて、高度経済成長にまい進していた当時の日本では、冷戦体制を前提にした談合政治の風潮が頂点に達しようとしていた。アメリカがベトナム戦争で苦しんでいる中で不可能とも言われた沖縄返還を達成した時代に、国際法上は集団的自衛権行使に見える場合でも、憲法が禁じているので個別的自衛権しか行使していない、という詭弁(きべん)が生まれた。