そもそも本来、戦前の復活だけを警戒するのであれば、満州事変などで悪用された個別的自衛権のほうを警戒しなければならない。集団的自衛権は、枢軸国を打ち破った連合国側のドクトリンだ。それがいつの間にか話がすりかわって、「個別的自衛権=善」、「集団的自衛権=悪」、になってしまうのは、1960年代末のベトナム反戦運動や学生運動の体験に過剰な思い入れがあり、その特殊な思考枠組みにとらわれているからだ。したがって私は、集団的自衛権違憲論を「団塊の世代中心主義」と呼んでいる。

安全保障関連法案の成立前、村越進会長(中央、当時)を先頭に「安保法案は憲法違反です」との横断幕を掲げて国会周辺をデモ行進した日本弁護士連合会=2015年8月
安全保障関連法案の成立前、村越進会長(中央、当時)を先頭に「安保法案は憲法違反です」との横断幕を掲げて国会周辺をデモ行進した日本弁護士連合会=2015年8月
 個別的自衛権だけであれば乱用の恐れがないので深化させてよいという考え方は、冷戦時代の日本の憲法学を基盤にしてまん延した、根拠のない話である。最悪の場合、自国中心主義の危険な道を用意する。せいぜい反米主義の心情を持つ者を、情緒的に満足させるだけだ。

 国際法にしたがえば、個別的自衛権も集団的自衛権も、ひとしく制約される。そうでなければ危険だからだ。個別的自衛権は善です、集団的自衛権は悪です、といった法的根拠も、歴史的裏付けも欠いた議論は、極めて無責任かつ危険である。

 1960年代までの日本人は、戦前の日本を正当化して連合国側を否定するかのような盲目的な集団的自衛権否定論をとっていなかった。集団的自衛権違憲論は、冷戦時代の前提が永久に通用すると信じているという点で、特定の世代の感覚を無批判的に永久化させる議論である。

 「立憲主義」という言葉をガラパゴス的に用いて利用しようとしても、事情は同じである。以前のブログで「長谷部恭男教授の立憲主義は、集団的自衛権違憲論を説明しない」と書いた。端的に言って、立憲主義の説明で、集団的自衛権違憲論を展開するのは、無理だ。集団的自衛権違憲論の基盤は、反アベ主義と反米主義だろう。しかし政治イデオロギーを共有基盤として、憲法を感覚的に論じる態度は、非常に無責任である。まして、それを立憲主義という言葉で正当化し、強引に将来世代まで不当に呪縛しようとするのは、無責任を通り越して、罪深いことではないかと私は考えている。

 おそらく憲法学の学徒たちは「憲法優位説」だといったことを呪文のように唱えて、強引な主張を続けようとするのだろう。しかし「憲法優位説が憲法学会の通説」なので、「憲法学者は、国際法の内容も自由自在に決めて、好きなところ否認し、気が向いたら解除することができる」のだとしたら、その無責任さの度合いは計り知れない。危険すぎる独裁主義だ。

 日本国憲法98条2項は「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と定め、条約の遵守を求めている。憲法41条で「国権の最高機関」と定められている国会が審議して批准した条約で、「当事国は、条約の不履行を正当化する根拠として自国の国内法を援用することができない」(条約法条約27条)という規範も、日本は遵守している。国内法体系と国際法体系を矛盾のないように「調和」させる努力をするのが、憲法典の要請である。すでに成立した規範体系は、そのような努力の結果だという前提をかけるのが、日本国憲法典が予定している秩序観である。これは対立が生じたときにどちらが優位するか云々といった類の抽象的な法理学の問題のことではない。憲法典が持っている国際協調主義の理念を否定するのは、端的に、反立憲主義的である。

 僭越(せんえつ)ながら、冒頭で倉持氏にも、山尾氏にも、国際感覚が欠如した戦後日本憲法学中心主義が顕著に見られるということを指摘した。やはり弁護士である枝野幸男・立憲民主党代表を含めて、同じ傾向があるのかもしれない。

 司法試験の受験勉強時代に得た知識だけで世界の諸問題を論じようというのは、無理がある。司法試験勉強というのは、しょせんは資格試験勉強でしかない。まして司法試験の受験勉強の知識だけでキャリアを発展させていこうとするのは無理だ。マスコミなどを利用して、そのようなことを強引に行うとするならば、社会的な弊害は絶大である。