島田明宏(作家・ライター)

 小説『宮本武蔵』『三国志』などで人気を博し、国民的作家となった吉川英治(1892-1962)は、大の競馬ファンであった。吉川はどのようにして競馬に興味を持つようになったのか。自叙伝『忘れ残りの記』にこう書いている。

 ぼくの生れた当時の両親は、横浜の根岸に住んでいた。その頃はまだ横浜市ではなく、神奈川県久良岐郡中村根岸という田舎だった。家の前から競馬場の芝生が見えたということである。


日本初の洋式競馬場「根岸競馬場」の跡地、神奈川県
横浜市の根岸森林公園(福島範和撮影)
 生家から見えた競馬場とは、1866年に開場した、日本初の本格的洋式競馬場の根岸競馬場である。そこは、居留外国人を中心とする組織によって運営されていた。

 吉川の父は仕事で外国人との折衝が多く、競馬の主催者とも付き合いがあった。家でもよく競馬の話をしたという。そんな父に連れられ、吉川は何度も根岸競馬場に足を運んだ。なお、根岸競馬場は戦時中に閉場し、現在はメーンスタンドだけが残っている。

 7歳から9歳ぐらいのときまで、吉川の家は遊行坂にあった。その近くに人気騎手・神崎利木蔵の住まいがあったことも、競馬に惹きつけられる要因となった。『忘れ残りの記』にこうある。

 成人したら騎手になりたいと空想したのも、この遊行坂時代だった。名ジョッキーとして人気の絶頂にあった神崎騎手の邸宅がすぐ近くにあった。袖垣にバラをからませた鉄柵の門から内を覗くと、中央に広い草花のガーデンが見え、両側が長い厩舎(きゅうしゃ)となっていて、奥に宏壮な洋館があった。東京の羽左衛門という千両役者であるとか、新橋の洗い髪のお妻とか、ぽん太とかいう名妓(めいぎ)であるとか、やれ大臣だとか何だとかいう種類の人々の俥(くるま)や馬車がよくそこの門に着いていた。

 少年の目には、さぞ華やかな世界に映ったことだろう。神崎に関する回想はこうつづく。

 そしてその花形の人、神崎の苦み走った容貌と外出の騎乗姿は、お伽(とぎ)話の中の騎士のようにぼくら子供の眼には映じて、ひどく印象的だった。

 国民的大作家が、少年時代は騎手になることを夢見ていたのだ。体が小さく、長じてからも体重が40キロ台だったというから、無理な話ではない。