清水義和(愛知学院大客員教授)

 

 見知らぬ女から一通の手紙が届いた。封を切ると、きれいなペン字で、「昨日、千葉のマザー牧場へ行って、一頭の老馬に逢ってきました」と、書いてあった。
「聞くと、その馬はユリシーズという名でした。ユリシーズは今も元気で、子供たちのための乗馬として、みんなに可愛がられておりますから、御安心ください、と牧場の方が言っておりました」
 私はその手紙を読んで、むかし別れた女の消息を聞くような、てれくささと懐かしさで胸が一杯になってきた。ユリシーズ! それは私にとって忘れられない馬の名だったのである。(寺山修司『旅路の果て』新書館)

 弘前生まれの寺山修司(※1)は往年の競争馬が草競馬で走る落剝した姿を見て胸を熱くした。だが、中央競馬以外を知るきっかけになったのは、ユリシーズの馬主となり地方競馬を見る機会を得たおかげである。自身の所有馬にジェームス・ジョイスの『ユリシーズ』の名を付けた。この馬は、カーブも曲がり切れず真直ぐ走る癖があり、寺山は曲がったことが嫌いな性格に魅せられた。ユリシーズが中央競馬でスターになれず、引退した後、草競馬や馬肉でなく、マザー牧場で子供の乗馬になる余生が選ばれたのは思いやりからだったという。
詩人、劇作家で劇団「天井桟敷」主宰の寺山修司=1972年5月
歌人、劇作家で劇団「天井桟敷」主宰の寺山修司=1972年5月
 歌人で劇作家の寺山が騎手の吉永正人の伝記を書いた。吉永はレース中、他の競走馬からポツンと離れて走る一風変わった騎手だ。吉永は競馬を客観的に見る孤高の思考回路があると信じ寺山はユーモアあふれたエッセイを書いた。

 寺山の競馬論を読むと、馬のスピード感が好きだったことが分かる。「暴力としての言語―詩論まで時速100キロ」「時速100キロの人生相談」と表題に冠した。寺山は47年の短い人生を全力疾走し、生命を愛しむように次々と新しいアイデアを考えた。萩原朔美さんは、寺山が死後に遺した手帳を開いて驚いた。若い頃から若死にを覚悟していたが、何年も先まで予定がびっしりと書かれていたと回想する。

 寺山はスピード感覚を青校時代シェイクスピアの『マクベス』から学んだと私は考える。シェイクスピア役者は全力疾走しながら数ページに及ぶ台詞を一呼吸で話す軽業師だ。

 寺山は天馬のように疾走できるのは想像力だと考えた。「どんな鳥だって想像力よりは高く飛ぶことはできないだろう」と『邪宗門』に書いている。

 寺山は織田作之助(※2)の小説『競馬』が好きだった。主人公の寺田は亡き恋女房の一代が象徴する数字、“1”の馬券だけを買い続け、何度負けても、同じ“1”を執拗に買い求めて、とうとう最後になって勝つ。だが、寺山は、賭けは偶然性の賜物でなく、競馬に必然性を持ち込んだ織田作に批判的だった。

 サガンやドストエフスキーは賭博に巨額を投じ、同じ数字に固執して賭けた。まるで破滅する為に同じ数字を賭けているようで、カミュのシジフォスと同じ不条理だ。サガンは賭博にいつも同じ数字の“8”を掛け、一度は勝って大金を得て城を買ったが、その後心に魔物が棲み、数字に翻弄され、しまいには、財産はおろか死後も借金地獄に責めさいなまれ、墓碑銘さえ失った。

 ※1:寺山修司(てらやま・しゅうじ 1935~1983)歌人、劇作家。劇団「天井桟敷」主宰。競馬をこよなく愛した文化人の一人として知られる。
 ※2:織田作之助(おだ・さくのすけ 1913~1947)小説家。太宰治らとともに無頼派と呼ばれ、愛称は「織田作」。代表作に『夫婦善哉』『木の都』など。