橋場日月(歴史研究家、歴史作家)

 弘治3(1557)年11月2日、干ばつと凶作の結果、信長は必死に雨乞いをおこなった。そして飢饉(ききん)のなかで食糧を確保するため穀倉地帯の篠木を信長と争った弟の信勝は、兄の仮病にだまされ清洲城へおもむき、斬殺された。

 それにしても、当時の人々にとって雨乞いは、生命を維持するための作物を得ることができるかどうか、生死に関わる重大事である。竜や大蛇に、ゆかりの場所とゆかりの器具を用いて必死に祈るのもよいけれど、それで実際に効果があがるかどうかは蓋を開けてみなければわからない。せっかちな信長はこれをどう思うだろうか? 「まだるっこしい!」となるのではないか? どうもそれが、その通りだったらしい。

 信長が津島で雨乞いの踊りをおこなった前後、おそらくは明くる弘治4(=永禄元、1558)年のことだと思う。清洲城から5・5キロほどをほぼ真東に進むと、庄内川の河畔の長大な堤防にぶつかるのだが、信長の時代にもこの場所に堤防が存在したらしく、『信長公記』に「北・南に長き堤これあり」と出ている。

 この堤防の内側には「あまが池」という名の池があるのだが、これが古くから「蛇池」とも呼ばれてきた。その怪しげな池に大蛇が出た、と大騒ぎになったのだ。雨のなか、日暮れ時に目撃した者の話によると、大蛇の胴体は堤の向こうにあり、首があまが池の手前にまで伸びていた。その太さはひと抱えほどもあったというから、周囲170センチとすると直径は50センチ以上と計算できる。化け物の目は星のように光り、舌も紅色に輝いていた。
現在の蛇池
現在の蛇池
 この噂は、たちまち信長の耳に入る。自らの生い立ちと深く関わってきた蛇、しかも大蛇が出現したというのだから、信長もひどく興奮したらしい。目撃者を呼び出して話を詳しく聞くと、「明日、池の水を掻い出して大蛇を見つける!」と言い出した。ここでもせっかちな一面が顔を出している。

 そして翌日、彼は周辺9カ郷村の農民たちを動員した。農民たちは釣瓶(つるべ)・鋤(すき)・くわを持って池を取り巻き、一斉に水の掻い出しにかかる。最近「池の水ぜんぶ抜きます」というテレビ番組が高視聴率というが、それを約460年前に信長がやろうとしていたというわけだ。

 ところがこれが結構大変だった。4時間ぶっ通しで作業を続けても池の水は7割程度にしか減らないのである。この池はその場所からいって、庄内川の調整池の役割を果たしていたのではないかと思われるが、一方で川と地下水脈でつながっていたのかもしれない。とすればいくら水を掻い出しても池が枯れるはずがないのだ。