榊原智(産経新聞論説委員)

 「よく来たね!」

 「日本のおかげだよ!」

 日本代表団の団長、高碕達之助経済審議庁(のちの経済企画庁)長官ら一行は、独立したばかりのアジア、アフリカの新興国の代表たちから大歓迎され、相次いで温かい声をかけられた。

 1955年4月、インドネシアのバンドンで開かれた第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議、A・A会議)での出来事である。

 この会議は、第二次大戦後、欧米の植民地から独立したアジア・アフリカの29カ国の代表が一堂に会した国際会議である。

 日本は招待状をもらった。占領が終わって国際社会に復帰して間もない時期の日本にとって、不安を抱えながらの参加だった。政府内には見送り論もあったほどだが、案に相違してうれしい歓迎を受けたのだ。

 高碕代表に同行した加瀬俊一(としかず)代表代理(国連加盟後の初代国連大使)は生前の講演で、次のように振り返った。

 「(各国代表からは)『日本が、大東亜宣言というものを出して、アジア民族の解放を戦争目的とした、その宣言がなかったら、あるいは日本がアジアのために犠牲を払って戦っていなかったら、我々は依然として、イギリスの植民地、オランダの植民地、フランスの植民地のままだった。日本が大きな犠牲を払ってアジア民族のために勇戦してくれたから、今日のアジアがある』ということだった。

 この時は『大東亜宣言』を出してよかった、と思いました。我々が今日こうやって独立しました、といって『アジア・アフリカ民族独立を祝う会』というのがA・A会議の本来の目的だった。こんな会議が開けるのも、日本のお陰ですと、『やぁー、こっちへ来て下さい』、『いやぁ、今度は私のところへ来て下さい』といってね、大変なもて方だった。『やっぱり来てよかったなぁ』とそう思いました」。

 その翌年、日本は晴れて国連に加盟して、私は初代国連大使になりました。アジア・アフリカ(A・A)グループが終始熱心に日本の加盟を支持した事実を強調したい。A・A諸国から大きな信頼と期待を寄せられて、戦後我が国は今日の繁栄を築いて来たのです」


元国連大使、外交評論家の
加瀬俊一氏
 これは1994年7月、京都外国語大学で加瀬氏が講演した話だ。『シリーズ 日本人の誇り1 日本人はとても素敵だった』(揚素秋著、桜の花出版、2003年刊)の巻末に、同出版会長、山口春嶽氏が記した文章「シリーズ刊行にあたって」の中で記録されている。

 本稿の筆者(榊原)は、加瀬氏の子息で外交評論家の加瀬英明氏にも、この講演の存在と内容を確認できた。講演は、バンドン会議出席者の貴重な証言である。

 アジア・アフリカ各国の代表たちは、わずか10年前に終わった日本の戦争を、アジア独立に貢献したという文脈で語っていたのである。

 バンドン会議には、白人国家は一国も招かれてはいない。旧連合国が、アジアを侵略した日本からアジアの人々を解放したという見方があるが、当時のアジア・アフリカの代表たちはそんな見方はしていなかったようだ。解放の役割を果たしたのは日本の方だったとみられていたと考えるのが自然である。

 1956年の国連加盟の際、国連総会において日本を代表して加盟受諾の演説を行ったのは重光葵(まもる)外相である。重光は、戦時中の東条英機、小磯国昭両内閣の外相であり、東京裁判ではA級戦犯として有罪判決(禁固7年)を受け服役している。その重光が、国連総会で加盟受諾の演説をした際、各国代表は大きな拍手を送った。

 加瀬俊一氏が講演で語った「大東亜宣言」をご存じだろうか。日本の外交史上、というよりも、日本の歴史上、かなり重要な宣言なのだが、戦後の日本人はほとんど忘れてしまっているものだ。

 バンドン会議は、有色人種の国による戦後初めてのサミットだったが、歴史上初めて、ではなかった。近現代史上初めての有色人種国家のサミットは、1943年11月に東京の帝国議会議事堂(現国会議事堂)でアジア7カ国の首脳が開いた大東亜会議だった。

 出席者は、中華民国(南京政権)の汪兆銘行政院長、タイのワンワイタヤコーン殿下、満洲国の張景恵国務総理、フィリピンのホセ・ラウレル大統領、ビルマ(ミャンマー)のバー・モウ国家元首、日本の東条英機首相、それにオブザーバーとしてチャンドラ・ボース自由インド仮政府首班だった。いずれも当時の日本の同盟国、友好国である。

 これらの国々のほかに、アジアに独立国はほぼなかった―チベットやソ連の衛星国、モンゴルが存在した―といってよい。大東亜会議は、今風にいえば東アジア首脳会議であり、人種平等を目指したサミットだった。

 7カ国の首脳が世界に発信した大東亜宣言は「大東亜各国は万邦との交誼(こうぎ)を篤(あつ)うし人種的差別を撤廃」するとして、人種平等の原則を掲げた。欧米諸国が主体の連合国は、政治的な打撃を受けたのである。

 これに先立ち、米英両国が1941年に公表した大西洋憲章は、人民に政府の形態を選ぶ権利があると謳ったものの、チャーチル英首相は、この権利は欧州だけのものであり、アジア・アフリカの植民地には適用しないと述べていたのである。

 大東亜会議と大東亜宣言を推進したのが重光だった。加瀬は秘書官として重光を補佐する役割を担ったのである。ワンワイタヤコーンは戦後、外相や国連総会議長を務めた。バー・モウは、戦後著わした自伝でビルマの解放者は「東条大将と大日本帝国政府であった」と記している。

「南京事件」当日に演説する中国の習近平国家主席(代表
撮影・共同)
 今年は第2次世界大戦の終結から、日本にとっては大東亜戦争の終結から、70年の節目の年である。日本に厳しい視線を注ぐ国や勢力が、戦争をめぐる節目の日がくるたびに日本を侵略国として断罪してくるだろう。歴史戦である。

 中国は昨年12月、日中戦争時の1937年の南京占領で起きたとされる「南京事件」の追悼式典を開いた。初の国家主催で習近平国家主席が参加した。日本たたきへの意欲は満々である。韓国は、慰安婦問題で、日本が20万人の韓国人女性を性奴隷にしたと事実に反する宣伝を続けている。

 こんなことを許していては、日本は犯罪国、日本人は犯罪民族の烙印(らくいん)を押されてしまう。国民の精神は萎縮し、国の発展など望めないだろう。国際社会で沈黙は認めることに等しい。日本は反論を重ねていかざるを得ない。

 ただし、「専守防衛」だけでは国が守り切れない-だからこそ日米同盟がある-ように、歴史戦も防戦的な発想だけでは好転しないだろう。

 戦後、学校では先の大戦をはじめとする日本の近現代の歴史について、否定的な話ばかり教えられることが多かった。バンドン会議50周年の2005年に、バンドンで再び開かれたアジア・アフリカ首脳会議での演説で、小泉純一郎首相(当時)は過去への反省と謝罪を強調した。謙虚より卑屈に近いものに聞こえたのも戦後教育の成果だろうか。

 日本の戦争についてはさまざまなとらえ方があるだろう。戦後70年の今年は、日清戦争戦勝120年、日露戦争戦勝110年の節目でもある。第1回バンドン会議の各国代表たちのような、戦後日本の「常識」とはいささか違う歴史の見方が、日本の近現代史のさまざまな出来事に対してできるのではないだろうか。

 このような取り組みに「歴史修正主義」とのレッテルを貼って排斥するとしたら、知的な態度とはとても言えない。一方的な日本断罪が、思い込みに基づくひどい過ちでありえることは、朝日新聞などの慰安婦問題の虚報をみればわかるはずである。

 歴史は多面的に見るよう努めたい。そうすれば、落ち着いた気持ちで歴史を語り、理不尽な非難に史実をもって反論することもできる。未来にも目を向けられる。今年はその良いチャンスである。

※産経新聞 平成27年1月3日付朝刊掲載の原稿に加筆しました。