泣く暇ない20年。でも考えん日はなかった

 ~ 志智キミ子さん(76)


〈夫、志智勉さん=当時(58)=を亡くす〉

がれきの中から見つけ出した2つのステンレスのポットでアイスコーヒーとガムシロップを作る志智キミ子さん=神戸市長田区御蔵通の喫茶店「ホワイト」(頼光和弘撮影)
 そろそろ店を開けようかという時間でした。私は2階におってね。ドーンというたなと思ったら、2階が下になっとった。息子らがつぶれた1階からお父ちゃん(勉さん)を見つけたんです。エプロンもしていました。

 「勉さんが一生懸命やっとったんやから、もう一回頑張ってみたら」。田舎の弟に言われたのをきっかけに、お父ちゃんの親の代から始まった神戸市長田区の喫茶店を続ける決断をしたんです。それまでは、レジに立つくらいだったから、コーヒーのいれ方も一から勉強しました。

 仮設住宅から街に出るたびにコーヒーカップを買いそろえました。震災の翌年にオープンしたときには、お父ちゃんの高校の同級生が集まってくれて、記念に写真を撮りました。

 このポットは誰かが、見つけてくれたんでしょうね。1つは蓋(ふた)がないんです。よう残してくれた。ガムシロップや、アイスコーヒーを作るのに大事に使うてます。

 あれから20年。あっという間やねえ。泣いてる暇もなかったわ。でもお父ちゃんのこと、考えん日はなかった。落ち着いたんかな。今の方が涙が出るわ。

 17日は毎年、(勉さんの名前が刻まれた銘板がある)東遊園地に行きます。孫らが二十歳になるたびに連れていっています。お父ちゃんがおったら、喜んだやろうね。

最愛の母の死…。悲しすぎて涙も出なかった

 ~ 片山秀和さん(60)


〈母、片山サヨ子さん=当時(64)=を亡くす〉

母のサヨ子さんが愛用していたかばん。片山秀和さんが
命懸けで取り出した=兵庫県淡路市(頼光和弘撮影)
 余震が襲う中、母が使っていたかばんを命懸けで取り出しました。中には、長財布やお守りのように持っていた木の札がありました。長財布には、父親とハワイ旅行をした際のドル紙幣が入っていました。

 私の長男が幼いころ、田植えの苗を田んぼに投げて、遊んでいたことがあるんです。母は怒らずに、やさしく「上手に植えたね」と言うような心の広い人でした。花が好きで、よく部屋に飾っていました。

 兵庫県北淡町(現淡路市)にある自宅の柱が外れて屋根が落ちました。消防団員が母を助け出したときには、体が冷たくなりつつありました。悲しすぎて涙が出ず、パジャマに何かを羽織っただけなのに、寒くなかったんですよね。前年末に初めて買った携帯電話で、親族に母の死を伝えました。

 前日の夜、いつもより早く帰宅できました。母も起きていて、話をした後、日記に「家族全員、今日も無事に終わりました」と書いていました。その日記帳は、フランス人形と一緒にひつぎに納めました。

 昨年、病気で入院しました。直前にかばんを手に取り、じっと見つめました。20日間も入院するので、きっと寂しかったんやね。

娘の死無駄にしない。重たい足かせ引きずる覚悟

 ~ 寺田孝さん(75)


 〈長女、寺田弘美さん=当時(30)=を亡くす〉

震災で亡くなった長女の弘美さんの遺影の前で、最愛の
娘の声が録音されているカセットテープとレコード盤を
見つめる寺田孝さん=神戸市長田区(頼光和弘撮影)
 寝付けずうとうとしてると、いきなりグラッときました。倒れたたんすが右耳を直撃したけれど、命は助かった。近所の兄や姉の家に安否の確認に走り、神戸市長田区の娘のアパートに行くのが最後になってしまって…。着いたときには焼けてあれへんかった。

 4日後、跡地を自衛隊の人に掘ってもらったら、遺骨が出てきて絶句しました。地べたに頭をこすりつけて、何回娘に謝ったか。

 明るい子でした。小学生の頃、三宮であったのど自慢大会でアグネス・チャンの曲を歌って優勝。その歌声が録音されたレコードが宝物です。仕事が決まり、友達と就職祝いをしようという矢先やったそうです。

 娘は火事の熱い中で亡くなったから、真夏を選んで、震災の翌年に四国霊場八十八カ所を巡りました。静かな山の中を歩いて札所を回ると、人生を振り返る機会にもなり、これまで、3回結願(けちがん)しました。地震で命を落とさないよう、震災の語り部もしています。

 足を悪くして四国には行けないので、20年を機に、娘と静かに向き合おうかなとも思っています。(娘の死で)重たい足かせをはめられた。ずっと引きずっていく覚悟はできています。

手書きメニューはがされへん。値段はそのままや

 ~ 上野数好さん(71)


〈妻、上野美智子さん=当時(47)=を亡くす〉

色あせた手書きメニュー。美智子さんが優しく上野さん親子を見守っているよう=神戸市東灘区の灘寿司(頼光和弘撮影)
 よう気がつく、優しい嫁やった。よう仕事もしよったで。震災の前から貼ってあるメニューも、丁寧に書いてるやろ。破れてるけど、はがされへん。だから今も値段はそのままや。

 震災の日の夜中3時ごろ、神戸市東灘区の家でくつろいでいたら、大学生やった長男と電話しとった。スキーに行ったという長男に、「私も2月にフランスに旅行するよ」って。2人で行くと決めとったんや。その2時間後に地震や。

 嫁は震災の2年ほど前に、自転車でこけて、当時は股関節のボルトを抜いたばかり。「階段を上がると痛い」って、1階で寝たんですわ。つぶれた家の下から遺体を出してもらった。数百メートル先の安置所まで、車で5時間ぐらいかかったわ。

 つらかったな。2カ月ぐらい店を休んだかな。お客さんがシャッターに「大将、頑張ってよ」って貼り紙してくれて。家におったら酒ばかり飲むから、店を再開したんや。今は、長男と一緒に仕事しとる。でも、家に帰ったら1人やから、寂しくなるんや。

 17日は仕事をしてから、近くの慰霊碑に行く。嫁は頑張り屋さんやったから「来んでいい。仕事しなさい」って言うと思うわ。

活発な娘。もうお母さんになってたやろね

 ~ 大石博子さん(65)


〈次女、大石朝美さん=当時(16)=を亡くす〉

次女の朝美さんが着ていたカーディガン。今も大切に袖を通す=神戸市兵庫区
 何年たっても、娘を思う気持ちは変わりません。今日は娘のカーディガンを持って東遊園地に来ました。去年の12月で36歳。「早くお嫁さんになりたい」って言ってたから、もうお母さんになってたやろね。

 神戸市兵庫区の文化住宅で被災しました。たんすが倒れてきました。胸が苦しかった。助けられるのがあと30分遅かったら、私もだめやったかもしれない。

 あの日、午前3時ごろに起きた主人が、宿題をしていた娘に「はよ寝えや」って言うたら、娘が隣の布団に入ってきたことは覚えてるんです。(家が崩れ、閉じ込められていたときには)無意識に手を握っとったんやけど…。

 活発な娘でした。いまだに、中学校の先生や友達が家を訪ねてくれるんです。

 お笑いコンビの追っかけをしていたことや、帰ってくると、間仕切りののれんを勢いよく手で払って入ってくる姿。いろいろな場面が思い出されて。

 やっぱり、娘のことを忘れることはないわね。

(文・吉田智香、写真・頼光和弘)