重村智計(早稲田大名誉教授)

 日本は「空気の社会」であると言ったのは、故山本七平だ。戦艦大和は先の大戦当時の「空気」で負ける戦に出撃させられた。欧米にも「空気」はあった。米国の著名なジャーナリスト、ウォルター・リップマンはこれを「ステレオタイプ」と呼び、「誤ったステレオタイプ」が第一次世界大戦の原因と説いた。

 朝鮮問題の報道や解説は、昔から「間違った空気」や「誤ったステレオタイプ」に支配された。「北朝鮮は地上の楽園」で「朴正煕(パク・チョンヒ)は残虐な独裁者」だった。金日成(キム・イルソン)主席や金正日(ジョンイル)総書記を「残虐な独裁者」とは言わなかった。「北は日本人を拉致していない」とのステレオタイプも一般的だったのである。

 北朝鮮漁船が日本海岸に漂着し、漁船員が夜中に民家の戸をたたいた。転覆漁船や死体が毎日のように漂着している。船体には北朝鮮軍所属のナンバーが書かれていた。理解できない事態に、逃亡説や工作船説まで不気味な解説やステレオタイプが生まれている。

 海が荒れ、天候も厳しい冬場に、みすぼらしい小さな木造船で漁に出るのは、日本人の常識では死に場所を求めた「戦艦大和」と同じだ。なぜ死を覚悟してまで漁に出るのか、理解に苦しむ。工作船や不審船と思うのも当然だ。

 それは、北朝鮮海軍が漁業などの「海の利権」を握ってきた、という北朝鮮国内のシステムを知らないからだ。内部事情を知らずに、講談のように「誤ったステレオタイプ」を語る「専門家」が多すぎる。

 北朝鮮では、陸上の利権は陸軍が握ってきた。鉄鉱石や石炭、一部の金鉱山も陸軍の利権だった。軍の利権システムを知っていれば、漁船の漂着はある程度理解できるだろう。それに加え「収穫ノルマ」制がある。ノルマを達成するために漁に出ざるをえないのである。

 北朝鮮の漁船はかつて近海でしか操業できなかった。船は小さいし、海軍の許可が出ない。漁船燃料の石油は戦略物資で、軍が握っていたから勝手に出港できない。逃亡を恐れたから多量の石油は供給されなかったのである。

 4年前から事情が変わった。金正恩(ジョンウン)朝鮮労働党委員長が、漁業を食糧難解決と外貨稼ぎのために奨励した。海軍が独占していた漁業権の一部が党や政府の部局に移管されたのである。指導者は、軍から利権を奪い、資金を経済部門に振り向けたいと考えていた。それは、軍と指導者、党と政府の葛藤を生み、漁獲量の達成競争につながった。小型の漁船が多数建造されていった。
平安南道に新たに建設された順川ナマズ養殖工場を視察する、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長(右)。日時は不明。朝鮮中央通信が2017年11月28日報じた(朝鮮中央通信=朝鮮通信)
平安南道に新たに建設された順川ナマズ養殖工場を視察する、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長(右)。日時は不明。朝鮮中央通信が2017年11月28日報じた(朝鮮中央通信=朝鮮通信)
 漂着した漁船に、軍所属のナンバーが書かれていたのは、海軍の所属か認可を受けた漁船を意味する。軍所属でなければ、党や政府機関から操業許可を得た船ということになる。魚はタダだから中国に輸出すれば、膨大な利益が得られる。登録機関に賄賂を送り、認可を得る業者も増えた。