山下祐介(首都大学東京准教授)

 2017年10月の突然の衆院選は、野党の分裂を経て自民の圧勝に終わり、11月には第4次安倍内閣がスタートした。

 今回の選挙ほど政治のあり方を問われるものはなかっただろう。21世紀に入って、この国はさまざまな政治行政改革を行ってきた。その改革は明治維新以来といわれるほどだったが、「これでよい」という解にはいまだにたどりつけていないようである。

 現在の選挙は国民・住民の代表選びではなく、職業政治家の選択にすぎないことは明らかだ。普通の国民・住民が議員になるハードルは高く、いったん議員を目指せば選挙に勝つことが第一義となり、「住民にとってどんな政治が必要か」よりも、どんな人が自分に票を入れてくれるのかを嗅ぎ分ける力が問われる仕事となっている。今の選挙制度(特に小選挙区制)を続ける限り、この状態から抜け出すことは不可能だろう。

 そもそも肝心の議会の改革が不十分だ。近年の改革によってかえって悪くなった感じの方が強い。どうすれば議会・政治が清い流れになり、住民全体のためにしっかりと仕事をする「善い魚」がすめるようになるのか。それとも権力には欲望と悪徳がつきものであり、私たちはそこから逃れることなどできないのだろうか。

 今年6月に高知県大川村が提起した、将来議員立候補者が不足する場合に備えるための村民総会の研究は、今述べたことと深く関係する。この提案はその後撤回されたが、非常に重要なことが提起されたと思うので、ここから議会政治というものについて問い直してみたい。
高知県大川村の議会で、「村総会」の検討を本格化させると表明する和田知士村長(左から2人目)=2017年6月12日(共同)
高知県大川村の議会で、「村総会」の検討を本格化させると表明する和田知士村長(左から2人目)=2017年6月12日(共同)
 まず重要と思われるのは、議員(少なくとも地方自治体の議員)というものは必ずしも割のいい仕事ではないということだ。私たちはどこかで議員には権力が委ねられ、そのことによって私利私欲を実現する機会が高まる、だから職業政治家になる人があとを絶たないのだと、そういうふうに思いがちである。

 そうなっている例は確かに見られる。だが、議員に付帯されるさまざまな特権を引っぺがしてむき出しにしたとき、その本質は極めて責任が重く、自己犠牲が多く、しんどい仕事なのだ。議員のなり手がいない―特に過疎山村においてこの現実は、放っておいても必ず立候補者が出てくることを前提にしている今の議会制度に、何か大きな欠陥があることを示唆している。大川村はその最前線であった。

 さてともかく、議員のなり手がなく議会が組織できないという事態が生じた場合、その代替となる制度が「村民総会」なのだという。私も大川村の一件で知ったのだが、要するに村民全員が議員になるということのようだ。議会による間接民主制が機能しないなら、全員による直接民主制に切り替えればよいという発想だと考えれば理解しやすい。民主主義とはみんなの声を集めることだから、原点に返るということなのだろう。