人口減少の呪縛から解き放つ「ふるさと住民票」のススメ

『山下祐介』

読了まで12分

山下祐介(首都大学東京准教授)

 2017年10月の突然の衆院選は、野党の分裂を経て自民の圧勝に終わり、11月には第4次安倍内閣がスタートした。

 今回の選挙ほど政治のあり方を問われるものはなかっただろう。21世紀に入って、この国はさまざまな政治行政改革を行ってきた。その改革は明治維新以来といわれるほどだったが、「これでよい」という解にはいまだにたどりつけていないようである。

 現在の選挙は国民・住民の代表選びではなく、職業政治家の選択にすぎないことは明らかだ。普通の国民・住民が議員になるハードルは高く、いったん議員を目指せば選挙に勝つことが第一義となり、「住民にとってどんな政治が必要か」よりも、どんな人が自分に票を入れてくれるのかを嗅ぎ分ける力が問われる仕事となっている。今の選挙制度(特に小選挙区制)を続ける限り、この状態から抜け出すことは不可能だろう。

 そもそも肝心の議会の改革が不十分だ。近年の改革によってかえって悪くなった感じの方が強い。どうすれば議会・政治が清い流れになり、住民全体のためにしっかりと仕事をする「善い魚」がすめるようになるのか。それとも権力には欲望と悪徳がつきものであり、私たちはそこから逃れることなどできないのだろうか。

 今年6月に高知県大川村が提起した、将来議員立候補者が不足する場合に備えるための村民総会の研究は、今述べたことと深く関係する。この提案はその後撤回されたが、非常に重要なことが提起されたと思うので、ここから議会政治というものについて問い直してみたい。
高知県大川村の議会で、「村総会」の検討を本格化させると表明する和田知士村長(左から2人目)=2017年6月12日(共同)
 まず重要と思われるのは、議員(少なくとも地方自治体の議員)というものは必ずしも割のいい仕事ではないということだ。私たちはどこかで議員には権力が委ねられ、そのことによって私利私欲を実現する機会が高まる、だから職業政治家になる人があとを絶たないのだと、そういうふうに思いがちである。

 そうなっている例は確かに見られる。だが、議員に付帯されるさまざまな特権を引っぺがしてむき出しにしたとき、その本質は極めて責任が重く、自己犠牲が多く、しんどい仕事なのだ。議員のなり手がいない―特に過疎山村においてこの現実は、放っておいても必ず立候補者が出てくることを前提にしている今の議会制度に、何か大きな欠陥があることを示唆している。大川村はその最前線であった。

 さてともかく、議員のなり手がなく議会が組織できないという事態が生じた場合、その代替となる制度が「村民総会」なのだという。私も大川村の一件で知ったのだが、要するに村民全員が議員になるということのようだ。議会による間接民主制が機能しないなら、全員による直接民主制に切り替えればよいという発想だと考えれば理解しやすい。民主主義とはみんなの声を集めることだから、原点に返るということなのだろう。
直接民主制が危うい理由

 しかし、直接民主制にすればそれで解決するというものでもない。大川村が、しかるべき時が来れば村民総会を「実施する」といわずに「研究する」といい、そして9月に「研究を断念する」といったのは、それが極めて実現困難なものであると認識していたからであろう。高齢者の居住地が山間に散在している実情の中で―そしてこの地形状況が、大川村が他と合併せずにいる理由でもあると推察するが―全員を集める総会を頻繁に開くことは現実的には無理だということなのだろう。
議会への関心などを尋ねたアンケート結果を発表する高知県大川村の職員=2017年7月21日午前、高知市(共同)
 だが村民総会が適切な解ではない理由は、それだけにとどまらないと私は思う。村民総会は、実現困難だというだけでなく、実現することによって村民がさらなるリスクをかかえることになる。

 私は、直接民主制は危ういと考える。特に自治体の人口規模が過剰なまでに減少し、村の将来の見通しが立ちにくくなっている現状では。というのも、多くの人が後ろ向きの感覚を持っているときには、議論の場の設定の仕方に慎重でなくてはならないからだ。

 むろんここに暮らす人の多くは、この村がこの先もしっかりと持続していくことを望んでいるだろう。しかし現在、村の人口の絶対多数は高齢者である。そしてその子供たちの多くが都会へと離れてしまっている現実を前にして、村民の声は必ずしも村の将来に前向きなものだけではないはずだ。私自身が過疎地を回るときにもよく聞こえてくる声がある。「自分の代でもうこの村は終わりだ」「若い人たちは無理をしなくてよい」と。

 総会はオープンな場であり、少数でもこうした意見が表明されれば、それを否定し、前向きなものへと転換するのは大変難しくなる。これでは村は続かない。若い世代に対しても無責任だ。しかし、オープンな場で生の住民の声は排除しにくい。村の将来を決める会合は、できるだけ慎重に、感情論を廃して、しっかりと前向きに進めなくてはならない。代表民主制である議会ならできるとはいいがたいが、村民全員が参加する総会にも、その保証があるとはいえない。むしろ社会が崩壊するリスクは高まるというべきだろう。

 私がこう述べるのは、この数年地方で、明らかに今までとは違う人口の流れが生じているからである。人口減少はそろそろ止まる。山間部や島嶼(とうしょ)部で、あるいは農村や漁村で、若い人々の環流が始まっている。Uターン、Iターン、孫ターン、仕事を求めて、農地を求めて、あるいは都市から逃れて…。人の動きや動く理由には地域差も大きいようだが、全体の流れがどちらに向かっているかは明確だ。そこでは新たに子供たちも生まれている。高齢者たちが抜ける穴を埋めるように、若い人々の田園回帰・地方帰還・人口再生産は着実に進んでいる。
制度に修正が加えられるべき時が来た

 そしてこの大川村でも、若い人の山間部への移住・還流は同じように生じているようだから、地域再生を進めるために、今こそ次世代に向けた積極的な対策(教育や子育てなど)を用意する必要がある。

高知県大川村「緑のふるさと協力隊」として
移住した和田将之さん=
2017年5月12日、(角田純一 撮影)
 だが、高齢者ばかりの自治体で、高齢者たちの意見だけを聞いていてはそうした対策は打てない。若い人々もなかなか声をあげにくいようだ。そこでこれまでの議会に替わって村民総会が導入されたとしても、それが議会に替わる適切な手段になるのかといえば私にはそうは思えない。むしろさらに若い人々が意見を通しづらい状況が生まれるのではないか。

 適切な村政を導く民主制の方法はもっと別にあるはずだ。今回の大川村の動向が提起していたのはそういうことだと理解したい。

 そして、筆者はこう希望を持っている。大川村のような小さな自治体であればあるほど、全体の構造がよく見える。だからこそ、現在の議会制民主主義に替わる適切な行政チェックシステムを必ずや確立できるだろうと。要は村全体がきちんと見え、将来世代に責任をもち、適切に状況を分析し、判断し、村長以下、自治体の職員チームが提示する政策の善しあしを的確に判断する集団が、村の中にしっかりと位置づけられればよいわけだ。

 逆に言えば、そうした機構を首都圏の大都市部に適切にセットすることの方が、とてつもなく困難な話なのだ。巨大な都市で流動性の高い住民たちが、その地域社会全体を見て適切な行政施策を選択していくことなど、そう簡単に実現できるとは思えない。

 そもそも議会制民主主義そのものが古き発明品である。しかもこの国のオリジナルでもない輸入品だ。民主制、代表制、議会や選挙といったものを、自分たちにとって使い勝手のよいものへと、私たちはもっと新たな発想で構築し直していく必要がある。

 議会代表制と村民総会のあいだ、そのどこかに大川村ならではの民主主義の最適解があるはずだ。今回の「村民総会の検討をした」という選択がきっかけとなってさまざまなアイデアが模索され、実験され、この地にあった適切で適当な民主制システムが選択される、そういうプロセスが進むことを期待したい。

 そしてこのことは間違いなく、日本の大都市部や国会にもあてはまる。特にこの1年の間におきた政治プロセスのおかしな事態は、特定の政治家や行政職員が悪いということではなく、現在の政治家を選び民主主義を支える制度自体に問題があるのではないか。そういうメタ論的な発想で事態は検証され、修正が加えられるべき段階にきている。そういう視点を広く国民全体で共有することが必要だろう。

 さらに、こういう提案も示して、この問題についてのさらなる議論の活性化をうながしておきたい(以下については拙著『地方消滅の罠』も参照)。
村民は「その村に住んでいる人」だけではない

 大川村は人口約400人の過疎山村というが、それは住民票を勘定すればそうなるというだけで、大川村に関係している人口はもっと多いはずである。大川村の出身者は、若い人ほど大川村を離れて暮らしているが、その多くは高知県内、四国内にとどまっていて、頻繁に出入りしているだけでなく、どこかで帰還するチャンスをうかがっている。いわゆる限界集落はどこでもそうなっている。

 筆者は思う。こうした村の外にいる者たち(通う村民、関わる村民、関係人口)も村民の一部と考えるべきではないか。中でも将来大川村に帰ってくる予定の人などは、今からでも大川村の村民として迎え、その意見を聞くことができるなら、帰還を実現しやすくなるのではないか。逆にそうした外の声を反映せずに、今ここに住んでいる人たちだけの声で政策を進めるから、帰還しにくい、若い人が暮らしにくい村にどんどんとなってきたのではないか。

 構想日本の呼びかけに応じて集まった自治体により、「ふるさと住民票」の試みが始まっている。ふるさと住民票とは、今ここには住んでいないが、何らかの形で自治体に参加したいという人にある種の準住民のような資格を付与し、その自治体の力になってもらおうというものである。2017年12月の時点で、鳥取県日野町、徳島県佐那河内村、徳島県勝浦町、香川県三木町、香川県三豊市がその発行をはじめている。
徳島県佐那河内村の「ふるさと住民票」を岩城福治村長(左から2人目)から交付される、名誉村民の書家山根玉峰さん(同3人目)ら=2017年3月7日午後、佐那河内村役場(共同)
 ふるさと住民票の発行が何をもたらすのか。ともかくも現段階では実施しながら考えようという試行錯誤のものだが、例えばこの発想からすれば、村の民主主義も、その村に住民票をおいている人だけのものではなくなっていくはずだ。村の出身者、村に働きに来る人、あるいは将来この村に住みたいと思っている人だって、その村の政策形成に参加する権利がある。議員だってそうした人の中から出すことも許されてよいのではないか。あるいはかえって、こういった半第三者的なチェック回路がある方が、適切な行政運営・政策形成が実現するのではないか。

 おそらく今、私たちはそれぐらいのスケールで議会のあり方、自治体のあり方についてしっかりと踏み込んだ見直しを進める必要がある。そしてそうした見直しが、過疎山村のみならず、大都市を含めたこの国の民主主義、政治過程の再活性化につながるものと信じる(選挙と民主主義に関しては、拙稿も参照されたい)。

 高知県の山村も含め、そろそろ過疎地の人口減少も下げ止まりになってきたようである。大川村でもすでにその兆しが見えているという。この転換期に見合う新たな自治体、新たな議会、新たな民主主義のあり方を、将来を見まごうことなくしっかりと模索し、選択したいものである。



この記事の関連テーマ

タグ

大川村はニッポンの縮図ではない

このテーマを見る