小さな会社なら社長一人、400人の村に議会は本当に必要か

『佐々木信夫』

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佐々木信夫(中央大大学院教授)

 人口約400人の高知県大川村が今年6月、村議会を廃止し、有権者全員で予算案などの審議をする「村総会」の検討を始めたと報じられ、話題になった。

 なぜ話題になったのか、小さな会社なら社長一人で全てを決めても問題なさそうだが、そうはいかない。多くの人々は民間で働いているが、民間の常識からみて本当に議会は必要なのだろうか。もしかして「必要悪」になっていないだろうか。

 日本の地方政治の仕組み、それはどんな小さな町村でも議会と首長を置き、いずれも公選にしなさいと憲法第93条に書いてある。ただ、それを受けた地方自治法は町村が議会を置かずに有権者の総会(町村総会)にかえることもできると規定している。町村総会は戦後の短期間、東京の八丈小島の旧宇津木村で実施された例があるだけだ。

 この憲法の規定を後生大事に守り続けてきたのが戦後の日本だ。一番小さな村、人口170人ほどの東京都青ヶ島村でも村議会を置き6人の議員がいる。各議員には月額10万円、ボーナスを含め年俸約150万円が払われている。
2017年2月、東京都の小池百合子知事(前列右端)と都庁で意見交換する青ケ島村の菊池利光村長(左)
 一方、日本最大の地方議会である東京都議会の都議は127人。ちなみに、2015年時点で、この人たちを含め全国の1788地方議会に3万3438人(都道府県2613人、市区1万9576人、町村1万1249人)の議員がいる。47都道府県、790市、928町村(745町、183村)、23特別区を合計しての話で、いずれも極大、大、中、小、極小の自治体と様々だが、地方議員が住民の代表として予算を決め、条例を決め、主要な契約を決めている。その総額はおよそ100兆円にのぼる。

 欧米から戦後移入された議会制民主主義という考えに沿ったこの仕組みだが、戦後70年たっても、未だ地方議会が十分機能しているという評価にはない。地方議員の不祥事も後を絶たず、カネの使い方を含め必ずしも評判がよいとはいえない状況だ。

 まず、地方議会は必要かどうかを考える前に、全国一律の2元代表制(首長、議会を公選し双方の機関対立主義を求める)がこの国に合うかどうか、が一つのポイントになろう。というのも、日本は二つの国から成っていると見ることができないだろうか。一つは東京、名古屋、大阪などの超過密の大都市圏という国、もう一つは地元で葬式もできなくなっている限界集落などを抱える超過疎を抱える地方圏という国だ。

 前者の大都市圏のうち、例えば東京都は国土面積のたった1%に過ぎないが国民の1割、1300万人が暮らす。東京圏(1都3県)は3・5%だが、3500万人と国民の4分の1近い。小さい面積の3大都市圏の空間に国民の6割が住む形だ。

 他方、地方圏のうち、各地の中山間、農村地域を抱える町村では人口減少が著しく限界集落、存亡の危機に直面している。
人口千人未満の町村は増加する

 高知県大川村ではついに議員のなり手もなく、村議会を廃止する検討をしたというが、人口1000人以下の町村が現在28(離島含む)あり、4分の1の町村では大川村と同じ思いのようだ。3年前に元総務相の増田寛也氏らが約1800市区町村のうち「896市町村が消える」という人口減少時代のショッキングな研究成果を発表し話題になったが、この先、この種の問題はより先鋭化してくるのではないか。いったい、この国はどこへ向かっていくのか。
高知県大川村議会
 この二つの国の構造的な問題を解くには、それぞれ過密対策と過疎対策という全く違う政策対応を考えなければならないにもかかわらず、明治維新から150年経っても依然、国民から遠い政府が中央集権体制のもとで箸(はし)の上げ下げまで決めている始末。最近の「地方創生」という名の地域振興策も、全国一律のモノサシで進められ、どうもパッとしない。

 このことが、いかに国民の納めた税金の無駄遣いを生み、いかに地域の元気・やる気を奪い、この国の衰退の引き金を引いているか、早く目が覚めないと滅びてしまうのではないか。

 そもそも細長い日本列島には多様な地域が存在する。それ自体、大きな魅力だが、総じて海に面した地域が多い反面、国土面積の7割が人の住めない山間部だけに、そこに近い中山間地域といわれるところは小さな町村が多い。

 平成の大合併が盛んな頃、人口1万人未満の町村を小規模自治体と呼び「差別だ!」として問題になったことがあるが、いま地方議会を置くべきかどうか。この1万人未満の小さな自治体は現在、485市町村にのぼる(市町村の27・8%)。

 大川村のように1000人未満の町村は、この先、10年もしないうちに100、いや200近くに増えるかもしれない。それだけに今回のケースは「特殊なもの」とはいえない。小さな町村で議会を廃止したらどうか、この話題の発端は大川村で、議会を廃止し、村総会で自治体の基本的な予算、条例などを決めて行こうという話が出たところに始まる。

 同村では、2015年村議選で定数6を超える立候補者はなく、現職6人が無投票で当選している。今後とも「議員のなり手がない(不足)」という。それならば、議会のあり方を考えるより、議会をなくした方がよいのでは、と一足飛びに廃止論へ傾いたようだ。

 議員のなり手がないというのは、もっと広がる話だ。2年前(2015年)の春、4年に一度の統一地方選では投票率の大幅低下と無競争当選率の増大が際立った。議員選に限っても、無投票当選率は町村で21・8%、道府県で21・8%、市で3・6%、指定市で1・7%とこれまでで最も高い。
政治の中心にない地方議会

 県議選の1人区などは3割近くが無競争当選だった。これは首長選にも波及し、町村長選で4割、その後さみだれ的に行われている市長選をみても、3割近くが無競争である。ついにその年は知事選までそれが現れた。岩手県と高知県の知事選が無競争だった。

 これに加え選挙があっても、事実上、選挙前から当選者が分かるような無風選挙を加えると、50%近くの地方選挙が無競争に近い状態だ。投票率も史上最低の45%で、有権者の半数以上が選挙に足を運んでいない。日本の地方民主主義は草の根から枯れ始めている。

 果して、無投票の当選というのは本当に「当選」なのだろうか。ゼロ票議員、ゼロ票議会の出現は、議会制民主主義における政治的正当性を失わせる。彼(彼女)らは仮面をつけた「みなし代表」に過ぎないのではないか。選挙の洗礼を受けない無投票当選(正確には選挙をする前に当選が決まった)は、選ぶ側にも選ばれる側にも「政治的正当性はない」と言えよう。今後人口減少に伴い、よりこの傾向が強まるとすれば、事実上、自治体職員の支配する地方自治へと変容する。住民の住民による住民のための政治を、自ら喪失してしまう。
2017年8月、茨城県東海村長選で無投票再選が決まり、万歳三唱をする現職の山田修候補(中央)
 公共分野が拡大し続け、税負担が年々重くなっているが、じつは日本全体の行政の3分の2は地方自治体が占めている。そこで議会制民主主義の空洞化が深く進行している。とするなら、この国はどこへ進むか分からない。

 すでに行政を中央政府(国)に任せればよかった時代は終わっている。地方分権改革で2000年から日本の行政の多くは地方自治体の自己決定、自己責任に委ねられている。ただ、地方に任せればうまく行く、その姿はまだ見えていない。地方政治が出番なのにパワーが見えない。納税者で近いところこそ一番問題が見えるはずだ。そこを大義に分権改革を進め自治体に政治行政を任せるのが民主主義の基本だというが、どうもそれは教科書の世界に止まる感が強い。

 2年前、政治参加の資格を18歳まで引き下げ、240万人の若者が政治に参加できるよう選挙権の拡大を図ったのに、事態は逆の方向に動いている。地方議員のなり手がなく、地方議会がうまく機能していない。それを地方民主主義の危機とするなら、これを放置したらこの国は亡びる。世界の中で、公共サービスの3分の2を都道府県、市区町村という地方自治体に委ねている国、これほど地方自治体の活動量(ウエイト)が大きな国は、カナダと日本ぐらいだ。
 
 それだけ、自治体の影響力は強いはずだが、肝心の地方議会が政治の中心になっていない。議会制民主主義が根のところから枯れている。
「無投票」選挙は当選なのか

 無投票当選ということが続けば、果して当選といってもその議員に住民を代表する政治的正当性があるのかどうかが問われるわけで、ゼロ票議員の集まりの地方議会そのものの政治的正当性が問われる。何を代表の根拠として予算、条例、主要な契約を決める資格があるかだ。

 こうした状況からして、大川村のような小規模な自治体では議会を廃止し住民総会で決めても何も問題はないのではないか。自治体の規模や地域特性に関わりなく、日本では地方に二元代表制を大都市圏、地方圏に構わず一律に適用する、創意工夫すら認めない形で適用する仕組みこそが問題ではないか。

 「議員のなり手がない」という点に絞っても、背景には次の4つの根深いものがあるように思う。 

第1.この20年間、経済の実質成長率ゼロのなか、税収も伸びず、政策をめぐる裁量の余地が極めて少なくなり、議員の活躍の場の喪失感が増大していること。
第2.若年、中年層を中心に職業の安定志向が強まり、あえて4年ごとにリスクを追う政治家(議員)に挑戦しようという気概(政治家の魅力も)がなくなってきていること。
第3.議員に選抜される母集団が構造的に狭まっている。サラリーマン社会にもかかわらず、サラリーマンが議員職を兼ねることができず、勢い自営業者か無職者のみの戦いになっている。事実上、8割近くを占めるサラリーマンが公職につくこと排除していること。
第4.報酬の削減が続き、経済的な魅力に欠け、また相次ぐ定数削減で新人の出る余地が狭まり、現職優先、現職の議席既得権化が進み新人の当選可能性が低下していること。

 この状況を変えることができるかどうか。というのも、どう見ても今後「議員のなり手不足」は深刻化しよう。相当大ぶりの抜本的な選挙制度の改革でもしない限り、競争率が上がり、無投票当選がなくなり、女性議員や若手議員が増え、地方議会が活性化していくという道筋は見えてこない。

 例えば、本業は会社員で日常生活を送るようにし、公職としての議員活動ができるよう、土日・夜間開催議会へ議会の置き位置をシフトするとか、年齢別の当選枠の設定や女性比率を定めるクオータ制(割り当て)の導入など、いろいろ考えられる。

 基本は、何といっても8割近くを占めるサラリーマンが議席を持って議会活動ができる仕組みに変えることができるかどうかだ。そこが最大のポイントとなる。会社員の労働法制を変えること(公職休暇制度)や、時間帯を夕方の「5時から議会に変える」などの改革が急務だ。
2017年12月18日、野田総務相(右から2人目)に提言書を手渡した後、記念写真に納まる高知県の尾崎正直知事(右端)、大川村の和田知士村長(左から2人目)ら
 では、議会は何のためにあるか。むかし、ギリシャの「樫の木の民主主義」という例がある。村の公共的決定は多くの村人が樫の木の下に集まって意思決定をしたという話。だんだん人口が増えて集まるのが大変になったら、輪番制で代表を決め、その人たちが意思決定をしたという話がある。

 この原型の例からして、要は予算や条例の決定、執行機関の監視、また住民の民意の反映は「議会」という装置を通さなければできないのかどうかだ。議会は絶対かどうか。議会自体に機能不全が視られる現状からその打開策として有権者が一堂に会する「住民総会」を開く方法も選択肢にあるとみるのが正しいように思う。
後押しするべき大川村の議論

 公選議会は廃止し、公選の首長に予算編成、主要契約、条例作成など全権を委ね、執行活動をチェックする「監視機能」に限定した「評議員会」をおく。問題のある首長は住民総会で解任できるようにする。実費弁償で集落別に出した評議員が四半期ごとに行政を統制したらどうか。議会自体に機能不全が視られる現状からその打開策として有権者が一堂に会する「住民総会」を開く方法も選択肢にあろう。

 とはいっても、大川村の実態をみて、いまの町村でそれを実現する際のハードルは低くない。地域住民の高齢化が進んで住民の一定割合が入院したり、施設に入所していたりするお年寄りは多いところもある。また住民を多く集めるだけの場所や総会の出席者をきちんと確保できるかも課題となる。人口は少ないといっても、面積が広く、集落が点々としていて都市部で考えるような密集地はない。総会当日、総出で役所が搬送に走り回る風景すら想定される。
高知県大川村役場
 総会で議論するテーマの範囲や具体的な運営方法をどうするかも大事な点だ。例えば、戦前の町村のようの首長が町村会(議会)の議長となって全てを仕切ったような形を住民総会に当てはめ、総会の司会を務めるようでは、執行権をもつ首長(執行機関の行政)へのチェックが形骸化してしまう心配もある。

 もちろん、いまの時代だからIT技術(情報技術)を駆使して総会に出られなくても議論に参加できる仕組みをつくったり、公正さを保つために運営ルールなどを定めた住民総会基本条例をつくり決定過程の透明性を高めるやり方もあろう。またこうした小規模町村の地方議員については兼業を前提として、会議は出席しやすい夜間の開催を原則とし、議員報酬は実費弁償に置き変えるという改革も一つの方法だろう。

 考えようによっては、町村総会は住民が行政に直接関わり、地域の自治に関心を持つ機会ともなる。総務省など国も冷ややかに例外を認めるかどうかの態度ではなく、この先の人口減少社会を先取りした自治制度のひとつの方向として、大川村の動きを後押しする方向で検討すべき段階ではないか。

 もちろんそれは、地方議会のあり方を全般的に見直す機会ともなろう。大川村の動きを、議論を深めていくきっかけとすべきだ。過疎が進む各地の市町村で地方議員のなり手が不足する中、直接民主制的な手法で議会の機能を代替させようという、次代の地方自治のあり方の議論が深まる機会となるよう期待したい。

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