著者 H・N おじむ(和歌山県)

 差別にもいろいろあって、人種差別、男女差別、身分差別、階級差別、地域差別、職業差別、学歴差別など細かい分類は数知れず、それぞれに解決困難な課題を含んでいます。しかし、将来的に解消することが不可能とまではいえない、多少の希望くらいは持てる事柄です。
(iStock)
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 大抵の差別意識は、「同族意識」の反作用として起こります。「われわれ」に所属しない者に対する拒絶から派生するものなので「仲間である」と認識さえできれば、ひとまずは解決の扉が開きます。

 ところが、数ある差別の中でも障害者差別にはその希望すら持つことが難しいと感じています。なぜならば、障害者差別は同族意識の反作用ではないからです。親ですらわが子を見捨てることが珍しくないのです。むしろ仲間内にこそ強力に排除する力が働いてしまうのです。イザナギ・イザナミの初子「ヒルコ」のように。

 もちろん表面的には解消されたかのように取り繕う努力がなされてきましたし、これからもさまざまに啓蒙(けいもう)され、対策もとられるでしょう。

 しかしながら、どうにも排除することのかなわない溝があります。「健全でありたい」誰しもが至極当たり前に求める、何の悪意もない単純な願いが、ただそれだけの気持ちが、もうどうしようもなく障害者との間に一線を引いてしまうのです。

 「私は違う!」という人も大勢います。その言葉を否定することはできません。しかし、疑いは消せないのです。心底ではどうなのやらと。非難など決していたしません。健やかであることを願ってはいけない理由があるものでしょうか。

 かくいう私も障害者としてこの世に生を授かりました。幸い乳児のうちに手術を受けましたので、日常生活になんの支障もありません。ですが今も残る傷跡と変形は、やはり多少目立ちます。見る人が見ればわかるもので、いくどとなく不愉快な思いをしました。

 「やっぱりお前は普通の人間やない」と面と向かって言われたことすらあります。しかも担任の教師に。昔はそんな言葉を平気で投げつける人がごろごろいたのです。障害者とは何か。健常者とは何か。どんな必然がこの2種類の生き物の存在を許しているのか。あるいは偶然に生じた許されざる異物であるのか。

 その答えを求めずにはいられませんでしたが、中学生だった私には過大な難問でした。図書館へ行き、差別に関する書物を読んでみましたが、結局のところ「差別はいけません!」と人権を振りかざしているに過ぎませんでした。私の求める答えを提示してくれる書籍は皆無でした。私が求めたのは世間の暖かいまなざしではなく、完全無欠の「自己肯定」だったからです。