そして、今回の投票率に白票などの無効票が約3%を占めていることからすれば、実は全有権者の過半数((1-(0・53))+0・03≒0・5)が投票していないか、無効票を投じていることがみてとれる。民意は与党を選んだのではなく、投票などどうでもよいという態度だったのだ。ただし、私はこれを論拠に与党批判、あるいは野党礼賛をしたいわけでは全くないことを念のため断っておく。

 では、投票などどうでもよいというのが「真の民意」だったとすると、「投票に行きましょう」という、いささか強迫じみた呼び掛けは問題ではないだろうか。この呼びかけに応じて投票してしまう(気弱な)人々には誤解があるようだが、そもそも投票はいわゆる「国民の義務」にはカウントされていない。投票が義務でなく何かといえば、それは「政治」の主役となるデモクラシーを具現化するために人々が政治参加する権利、「参政権」の一つである。

 つまり、投票は人々にとって義務でなく権利なのだ。権利のうちの一つでしかない投票が義務と誤認されてしまうと、「政治」に対する参政権という権利には多くの意味合いや手段が含まれているにも関わらず、投票だけが「政治」に対する権利行使の唯一の機会と認識されかねない。 
2017年10月22日、雨の中、衆院選投票所を訪れた有権者
2017年10月22日、雨の中、衆院選投票所を訪れた有権者
 また、権利とは自らの意思で行使するかどうかを決めるものだが、それを義務と認識してしまうと、自らの意思に何らかの強制力が働いてしまう。つまり自主性をもった「政治」たるデモクラシーから乖離(かいり)していく。

 それに加えて、ある為政者を持ち上げたと思えば、今度はその為政者の難点を探り当てて失墜させるという「マッチポンプ」にマスコミが興じ、それに世間や専門家も流されている。それもこれも含め、投票を通じた他者(為政者)の信任という他律性が、現代の「政治」の前提となってしまっている。「政治」が基軸とするデモクラシーとは本来人々がその主役であるはずだが、投票は人々が自ら確かに社会を担い、統治の主体たることの自覚を阻んでしまう。

 「政治」とは複数の人間から構成される社会における、集団的意思決定そのものであると私は定義している。これは国家だろうが、地方公共団体だろうが、地域社会だろうが、家庭だろうが同じことだ。特に国家や地方公共団体の「政治」では、人々自らが為政者となるデモクラシーが制度化されている。デモクラシーというからには自らが「政治」の責任を取らねばならない。