私はこれまで、人々の主体性に基づくデモクラシーを目指すために、「まち」に政府を設立する「究極の地方分権」を促し、人々自らが「政治」に直接関与する方策を主張してきた(拙著『デモクラシーをまちづくりから始めよう』(平凡社)などを参照)。「2割デモクラシー」が黙殺され、人々の投票が促され、投票のセレモニー性が強調されることで、人々は他律性を前提とする「政治」の欺瞞(ぎまん)性を受け入れてしまっているが、それに背を向けなければ、自律性を伴った「真のデモクラシー」が実現することはないと考えるのだ。

 しかし、そんなのは理想論であって、絵空事だという向きもあろう。そして、「まち」の直接民主政など、人々に「政治」を強制するのは自由の侵害だなどと反論してくる方がいるものだ。しかし、そうした言い訳をもって参政権という権利を半ば放棄するならば、そして数年に1度あるかないかの選挙で投票し、誰かを最高為政者として待望するだけで満足してしまうだけならば、それはデモクラシーと対極にあるとされる君主政や貴族政と何が違うのだろうか。むしろ、他者に「政治」を任せるという他律性の点では同質であり、それはデモクラシーという名の貴族政にすぎないのではあるまいか。

 そして私の主張が現実になりつつある情勢もある。地方自治体によっては代議員のなり手不足から「町村総会」が議論されたこともあった(高知県大川村)。代議員による議会を置かずに全町村民による総会を開いて「政治」をしていこうという動きだ。このような直接民主政は、代議員が介在することで可能なはずの冷静で客観的な政治的判断が阻害されると問題視されてきたが、現実の間接民主政での政治的判断では、しばしば偏向したマスメディアや、官僚主導によるごまかしに振り回されていることは一向に考慮されていない。
高知県大川村議会=2017年6月(共同)
高知県大川村議会=2017年6月(共同)
 私のいう「まち」のデモクラシーも、「町村総会」で議論されたように、総会は皆が出席しやすい夜間や週末の開催を原則とすればよい。まさに、分譲マンションの管理組合のように、である。そして、この「まち」を基礎自治体とする直接民主政を敷き、「まち」でできない課題については、より大きい社会、つまり地方公共団体や国家という既存の間接民主政に任せればよい、というのが私の持論である。さすれば人々の手に「政治」は宿り、現状の他律性によるデモクラシーとは決別できるはずなのだ。