呉智英(評論家)
 昭和21(1946)年、愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。民主主義や人権思想の矛盾から脱却する道として封建主義を提唱する封建主義者。マンガにも造詣が深く日本マンガ学会の理事も務める。著書に『封建主義者かく語りき』『サルの正義』『危険な思想家』『現代人の論語』『つぎはぎ仏教入門』など。


職業に貴賤はある


 11月14日、東京地裁で「ホステスと清廉性」「女子アナと清廉性」をめぐる裁判の初弁論があった。東洋英和女学院大学4年生の女子大生が日本テレビのアナウンサーに内定していたのに、銀座のクラブでホステスのアルバイトをしていたことが発覚し、内定取り消しになった。ホステス体験はアナウンサーにふさわしい清廉性を損なう、という理由からである。これを不当だとして女子大生が日テレを訴えたのである。争点はもう一つ、虚偽申告もある。女子大生は応募の過程で職歴・アルバイト歴の項にホステス体験を申告していなかった。法廷実務としては、こちらの方も重要な争点になろうが、事件が社会の関心を集めているのは「清廉性」の方だろう。

 既に新聞・雑誌・ネットなどで、ホステスに対する職業差別ではないかとか、今時ホステスぐらい誰でもやってるぞとかいった声が挙がっている。酒場談義ならこのレベルでもかまうまいが、何か御高見のつもりで新聞などにこの種のコメントを寄せる人がいるのは笑止である。

 12月2日付の朝日新聞は、この事件を解説風に報じ、元ホステスである作家の室井佑月の「職業に貴賎はなく、[裁判に]勝ったら堂々と日テレに入ればいい」という発言を結論部に載せている。

 勝ったら堂々と日テレに入ればいいというのは、現在の法秩序においてはその通りであり、私もそう思う。しかし、職業に貴賎は本当にないのか。どうも室井佑月は安易な良識論の上に作家活動をしているらしい。イデオロギーに曇らされた目には見えないかもしれないが、厳然として職業に貴賎はある。

 私は因習の中で「賤業」とされてきた職業に差別感は抱かない。むしろ、そうした差別への怒りに共感を示してきた。それらの多くは、社会制度の改革で解決できる。

 我々は現在ほとんど気づかないが、かつて徴税人は差別されてきた。現代で言えば税務署員である。聖書の中でも、徴税人は罪人と一括りにされ、人々に賤視されている。イエスはこれらの「罪人を招くために来たのだ」と語る。使徒マタイも徴税人だとされる(マタイ伝9・9~13)。フランス革命時、化学者のラボアジェは革命政府によって逮捕され、ギロチンによって斬首された。徴税人だったからである。民主主義と人権思想を実現するための革命は、被差別者である徴税人を殺すことで成立した。

 現在、民主主義と人権思想が実現しているのかいないのかよく知らないが、税務署員が堅実な職業として社会的信望を得ることはあっても差別されることはない。社会制度が変わったからであり、国家が公務員として徴税人を認定したからである。

 しかし、制度の改革では解消しない職業差別もある。日本共産党を監視する公安警察は、共産党から賤視されないだろうか。親族に公安刑事を持つ青年が共産党に入党したいと言って来たら入党拒否されないだろうか。それが虚偽申告だったら、どうだろうか。共産党以外の社会運動団体だって事情は同じである。これらの団体は、公安警察という職業を差別しているのである。それがいけないと言うのではない。むしろ当然だろう。

「選別」と「差別」は同義語


 そもそも、何かを「選別」する時、必然的に「差別」が伴う。この二語はほとんど同義語である。ずいぶん前になるが、新聞の投書欄に、無差別爆撃という言葉はやめようという意見が載った。無差別な社会を目指すことが全人類の課題になっているのに、無差別だから非武装の市民が殺されるとするのはケシカラン、という論旨である。これをきっかけに、差別をめぐる議論が起きればいいと、私は思ったが、どういうわけか、そうはならなかった。現代の良識がイデオロギーにすぎないということが暴露されるのを新聞は恐れたのかもしれない。

 入試も、大学だろうが企業だろうが、選別である以上、差別が伴う。能力がある者はウェルカム、能力のない者はあっちへ行け、という差別である。我々はこれを許容しているだけのことであって、本質は変わらない。許容の基準は合理性である。要するに、その差別が大学や企業にとって得になるか否かである。

 もっとも、その損得勘定はしばしば間違うことがある。そんな時、当事者はその非合理性を告発するだろうし、識者はその非合理性を分析批判するだろうし、国家権力は強制力を発揮するだろう。障害者を、能力による選別ではなく、障害者というだけで排除するのは、大学にとって企業にとって損になる、という見解はその典型例であり、何十年間かの試行錯誤を経て定着しつつある。先述の日本共産党への入党志望者選別の例は、何十年たっても解消されないだろう。それで少しも不合理ではない。

「芸能人」の独白に愕然


 さて、今般の女子大生の件は、どうか。

 この女子大生は、ホステス経験はアナウンサーという職業にとってマイナス要因でない、という立場である。ジャーナリズムの一翼を担うアナウンサーにホステス経験があろうがなかろうが関係ない、という考えである。

 確かに、ジャーナリストに要求されるのは、取材能力、発信能力、特にアナウンサーであれば言語能力であろう。この女子大生の擁護者である室井佑月は、先述の通り元ホステスであっても、広く言えばジャーナリズムに属する小説家をしていて何の不都合も不合理もない。

 しかし、女子アナはちがう。ジャーナリストの側面も少しはあるが、その能力の大部分は芸能タレントとしてのものである。単にアナウンサーと言えばすむものを、敢えて女子アナと呼ぶことに、それが表われている。女性タレントであるかぎり、お笑い芸人や悪役女優という少数派を除けば、清廉な女性像が能力として要求される。本当に清廉であるかないかなどと議論してもしかたがない。だから「像」である。

 先に言及した朝日新聞の記事でも、労働問題に詳しい吉村雄二弁護士は、女子アナは「一般の職業に比べれば、ホステス歴をふさわしくないとする余地はある」と述べているし、メディア研究の碓井広義教授は「女子アナが社内タレント化していることを象徴する」としている。現に、この女子大生は3年前ミス東洋英和に選ばれ、女性誌の読者モデルにもなっている。その延長線上の職業として女子アナをとらえているようだ。

 こうした事件が起きる背景には、芸能界の地位向上がある。20世紀半ばから、新聞、雑誌、テレビなど、報道メディアの急速な発達によって、そこに登場する芸能界がオーソライズされ、社会的地位が確立した。芸能界と裏社会とのつながりなど、かつては当たり前であったのが、つながりが発覚すると指弾されるようにさえなっている。

 政治家で芸人でもある東国原英夫は、かつて暴力事件や少女買春事件を起こし、芸能活動休止に追い込まれた。しばらくして、彼は早稲田大学に入学し、学生生活を送った後、政治家となった。

 政治家となった東国原英夫がこの学生時代を振り返ったインタビュー記事を芸能誌か何かで読んだ時、私は思わず目頭を押さえた。

 彼は、こんなことを語っていた。自分は学生になって普通の人の生活がやっと分かった。芸能人の時は、普通の人の生活なんて分からなかった、と。本当につらかったんだろうな、と私は思った。芸能人として差別されていた頃、普通の人としての生活など、想像もできなかったんだろう。私はハンカチで涙をぬぐいながら、その続きを読んで愕然とした。彼は、芸能人として華やかで人にうらやまれる生活をしていた頃、普通の人のみすぼらしい生活など想像できなかった、と語っていたのである。

 半世紀前には考えられないことである。吉永小百合は、それこそ清廉さを看板にする大スターだが、それでも早稲田大学第二文学部に入学し学士号を得た。その35年後、東国原英夫は吉永と同じ早稲田大学第二文学部に屈辱の入学をし、下積みの普通の人として学生生活を耐えたのである。

 私は、こういう社会の変化を嘆かない。悪いことだとは思わない。むしろ、このようにして芸能人差別が解消されるのは歓迎すべきことだと思う。同時に、歴史を、社会を、人間を、分からない人が増えているのは、大変に困ったことだとも思う。