西郷隆盛はなぜ自らが朝鮮に渡ることに固執し、「征韓論政変」を引き起こしたのか。これは、明治6年、西郷隆盛の朝鮮使節派遣を巡り新政府内で意見が対立し、西郷や板垣退助らの政府首脳と、軍人や官僚約600人が辞職・下野した件だ。そこには西郷の体調が大きく影響している、と大阪経済大学客員教授の家近良樹氏は言う。西郷は肥満をはじめとするさまざまな疾病を抱えていた。その病を辿ると、従来の認識とは違った西郷像と政変が見えてくる。家近教授が解説する。

* * *

 西郷の体調悪化は明治維新の趨勢にも少なからず関与したと考えられる。最大のケースが、明治期最大の政変と呼ばれる「征韓論政変」(明治6年)だ。

 この時の西郷の言動には不可解な点が多く、明治期最大の謎のひとつとされるが、「心身の異常」という観点から得られる知見は多い。

 明治6年7月29日、西郷は板垣退助に宛てて、朝鮮使節を志願する手紙を送った。それ以前の西郷には、新政府内でくすぶっていた朝鮮問題解決に向けての積極的な姿勢は見られず、周囲は突然の志願に驚く。
鹿児島市内に立つ西郷隆盛の銅像=2017年7月14日、鹿児島市(岩口利一撮影)
鹿児島市内に立つ西郷隆盛の銅像=2017年7月14日、鹿児島市(岩口利一撮影)
 実は朝鮮使節を志願する前の5月、西郷は持病の「激しい胸痛」が悪化して大侍医(宮中内の医療を担当する宮内省の医師)に「中風」の危険があると診断された。これを案じた明治天皇がドイツ人医師ホフマンを彼のもとに送り、肥満解消のための瀉薬(下剤)療法と食事制限が始まった。この結果、1日5、6度の下痢に悩まされるようになった。

 一連の朝鮮使節志願において西郷は何度も「死」に言及し、聞き入れられなければ自殺すると表明する一方、渡韓後に想定される事態については一言も語らなかった。何事も周到に準備を重ねる西郷としては異例の事態だが、これも体調不良により説明を果たす根気を失っていたとみなせる。

 朝鮮使節を異常なほどの熱意で志願した後、太政大臣の三条実美との会談が決まったが、西郷が〈数十度の瀉し方にて、甚だ以て疲労〉したため実現しなかった。自ら望んだ三条との面会に備えて、下剤の服用量は日頃より抑えるか、服用しなかったはずだ。それなのに数十度もトイレに駆け込むということは、少量の下剤の服用でも酷い下痢になるほど西郷の胃腸が弱っていたと考えられる。