前回、「戦後70年」をテーマにした原稿(http://ironna.jp/article/794 )に書かせてもらったが、阪神大震災はぼくにとって「原点」となる取材体験だった。

 当時、建設業界紙にいた私は、ある違和感を覚えていた。震災後、メディアが神戸一色の報道となったのもつかの間、2月に入ると急にその報道が薄れていったからだ。しかも、業界紙各紙は2月1日付紙面のトップには「復興の槌音」という文字が踊ったりした。建設省(現・国交省)の専門紙記者クラブで、現地に誰も入っていないにもかかわらず、建設省からの情報を垂れ流していたのだ。

崩れ落ちた家の前でうずくまる男の子=平成7年
1月17日、神戸市兵庫区
 そんな私が縁あって、黒田ジャーナルに転職し、すぐさま大阪に飛んだ。『週刊金曜日』で連載が決まっていたからだ。在阪ジャーナリストたちが体験し、見てきたものを出す、黒田ジャーナルにとっては願ってもない仕事だったのだが、取材スタッフは皆被災者でもあった。駒不足が懸念されていたところに、私が拾われた格好だった。

 4月20日過ぎだったと記憶している。実際に住む家を決め、神戸に入ったのはゴールデンウィーク直前だった。以前も書いたが、「いまごろ東京から来て何が分かんねん」と現地の人から言われることもあったが、それでも倒壊した家屋と瓦礫だらけの通りを見たとき、声も出なかった。

 JR神戸線「鷹取駅」南口を出て、東に数分歩くと、墓地があった。すべての墓石が倒れたままで、近くの電柱には家族の安否を知らせてほしいと願う貼り紙が揺れていた。穏やかな春の陽気に照らされた街並みは、「あの日」から時間が止まっているかのようにも見えた。決して、活気ある復興の槌音が聞こえているようには見えなかった。

 続いて、向かったのは、神戸市最東端の東灘区だった。摂津本山駅と芦屋駅の中間に位置する森南町。東京メディアの報道の多くは、長田の火災が阪神大震災の象徴のような扱い方をしていたが、地震による倒壊の凄まじさでいえば、この森南町が著しかった。全壊は5割を超し、半壊、一部損壊も加えると97%にもなり、死者は81人におよんだ。

空襲を受けたように焼け野原になった長田区。まだ建物から煙が出ている=平成7年1月18日、産経新聞社ヘリから
 この街の一帯が区画整理対象地域となっていたこともあり、取材のメインに置いた。お孫さんを亡くし、失意のどん底にあった呉服屋の主人やお寺の住職らに話を聞き、来る日も来る日もメモを取る目が涙で見えなくなった。一人の人間の死を見つめることは、家族や周囲のコミュニティーの歴史を掘り起こすことだ。決して忘れることは出来ないことだが、他人に話すまで傷が癒えていない方に何度も何度も会って確認する辛さ、一度で話をまとめられない己の未熟さを恥じる毎日だった。改めて、当時の『週刊金曜日』をめくると、この森南町のことを書いたのは7月28日号と8月4日号。実に、3カ月近く取材に費やしていたことが分かる。

 また、当時批判の矢面に立たされていた神戸市役所についても取材を実施した。業界紙で行政取材を長くやっていた者としては、全職員が悪者にされるのも違和感があったからだ。そして出会ったのが、用地課の職員たちだった。仮設住宅の用地を確保するため、被災した家族を家に残したまま、寝食を忘れ市内を歩き回った男たちの奮闘を描いた。いわゆる左派系週刊誌で、行政マンをキレイに描くことは異例だった。決して読者からの評判は良くなかったが、後ろ指を指されながらも寡黙に職務を全うする人たちの足跡は残しておきたかった。

 他にも数多くの人たちと出会い、語り合い、時に酒を酌み交わした。森南町の人や神戸市元職員などとは、今も年賀状のやり取りをする間柄だ。ここ数年、神戸に行く機会がなく、会えなくなって久しいので、ちょっと寂しい気もしている。

 当時、他のメンバーの記事を見てみると、在日の人たちや被差別部落の人たちの苦難を描いたり、病院や消防隊の秘話、ボランティアに駆けつけた人たちなどを活写している。一貫しているのは、名もなき市井の人たちの奮闘や苦労、戦後50年で浮かび上がった制度の不備や欠陥を抉り取っていることだ。主人公は一人ひとりの市井の人たちであり、その歴史、バックボーンもつぶさに描くことが大切だと学んだ。
懸命の捜索活動を続ける自衛隊員=1月23日、神戸市長田区
 連載は5月19日号から12月22日号まで31回にわたって続けられ、96年1月12日号、19日号の2回にわたり「教訓と提言」を掲載。その後、三五館から『ドキュメント震災と人間』が出版された(現在は絶版)。

 あの震災から20年。改めて振り返ると、こうやって書き連ねたものの、何を伝えられたのか、伝えきれなかったものが多いのではないかという自戒の念だ。東日本大震災の翌々日、かつて取材した神戸の関係者に電話したとき、「ごめんな、山ちゃん。ワシ、フラッシュバックを起こしそうになるからテレビが見られないねん」と、申し訳なさそうに話した。彼らが受けた心の傷は、今も深い。それを分からず、安易に電話した自分を恥じた。これからも機会があることに阪神大震災を取材していかなければいけないことを思い知らされた。