岩下哲典(東洋大文学部史学科教授)

 今年は明治維新150年、つまりは「江戸無血開城」150年である。150年前の慶応4(1868)年4月11日、江戸城は徳川家の管理から、平和裏に新政府の管理下におかれ、新政府に参加した尾張藩が受領(じゅりょう)し、管理の実務を担った。

 この「江戸無血開城」は、西郷隆盛と勝海舟の間で取り決められ、この二人が江戸を救ったヒーローたちということになっている。それで明治31(1898)年に東京・上野山に「西郷さん」の銅像が建てられ、平成15(2003)年には海舟生誕の地に近い隅田川河畔、それも墨田区役所の脇には「海舟先生」の像が立つことになったのである。

東京・墨田区役所に建てられた勝海舟の銅像。
高さ2・5メートルのブロンズ製で、太平洋を指差している
 しかしながら、「江戸無血開城」の幕府側の最大の功労者は、海舟では断じてない。山岡鉄舟である。そして二番目の功労者は、鉄舟の義兄、高橋泥舟である。海舟は三番手である。むろん、西郷は新政府側の最大の功労者であることは変わりがない。あえて言えば「江戸無血開城」の功労者は西郷と鉄舟・泥舟である。海舟は、徳川家の表向きの代表者として追認したにすぎない。

 それなのになぜ、海舟と西郷の業績のように語られてしまうのか。それらを明らかにしたのが、拙著『江戸無血開城の真実』(吉川弘文館、以下本書)である。本年春の刊行に先立ち、その概要をこの場を借りて紹介したいと思う。細かな日付や根拠などの詳細は、ぜひ刊行の暁に、本書を手に取っていただければと願う。

 ただし、本稿では本書執筆時には気が付かなかったこと、すなわち本書に書いていないこともある。本稿および本書の両方を合わせて読んでいただき、当時の景況を察していただければと思う。なるほど、「江戸無血開城」の功労者は鉄舟・泥舟と西郷だと。なお、またこの問題は、戊辰戦争初戦である鳥羽伏見の戦いの戦後処理問題でもある。それに関してもできる限り述べていく。

 「江戸無血開城」前史で最も重要なこと、ぜひ知っておいていただきたいことは、江戸の徳川方および新政府の東征軍に対する京都新政府の大方針、すなわち鳥羽伏見の戦いの戦後処理が「前線では交渉はしない」「してはならない」ということだったことである。では、どこに交渉の余地があったかというと参謀西郷率いる大総督府そのものだったことである。つまり、京都政府が、江戸城攻略最前線の部隊を率いる軍司令部である大総督府に交渉権を与えていたのである。

 もちろん結果的には、京都政府が追認することが、徳川方との交渉妥結の前提であるが、交渉権は大総督府、すなわち、中でも、かつて禁門の変における薩摩藩の軍責任者で、征長軍参謀も務め、さらに岩倉具視らによる「王政復古」クーデターを支え、もっとも徳川慶喜に厳しい処分を主張していた討幕派の首領西郷に、交渉権が一任されていたともいえるような状況であった。だからこそ、西郷が慶喜の助命と徳川家救済・存続に傾くことが、結果的に徳川方にとって良い方向に向かうことになったのである。